土方家の長男は「隼人」で世襲されている。長男から程遠い歳三は、家を継ぐこともできない。先行きがまったく見えないなか、歳三は武人に憧れて、家業の薬の行商を手伝いながら、剣の稽古に明け暮れた。
17歳頃には、家の庭に矢竹を植えながら、こんな宣言をしたと伝えられている。
「将来我武人となりて名を天下に掲げん(将来は立派な武人になる)」
歳三と運命をともにした近藤勇もまた長男ではなかった。そして歳三と同じように、農家の生まれにもかかわらず、やはり剣の修行に打ち込んでいる。
そんな2人が見つけた居場所が、京都で活動する幕府の警察組織ともいうべき、新選組である。新選組では、勇が局長を、歳三が副長を務めた。2人は京から全国へとその名を轟かせることとなる。
やがて新選組が、新政府軍に追い詰められていくと、歳三は改名しなければならなくなった。そのときに歳三が選んだのが「内藤隼人」。土方家の長男が名乗る「隼人」を仮名にしたのである。そこからはコンプレックスにも近い、跡取りとなる長男への憧れが見て取れる。
だが、もし、長男に生まれていれば、2人とも青年期にこれほどもがいて活路を見いだすことも、歴史に名を刻むこともなかっただろう。
道長の父は権力闘争に敗れて冷遇
平安時代に大きな権力を握った藤原道長も、長男ではなかった。
道長は康保3(966)年に藤原兼家の5男として誕生する。兼家は女好きだったらしく、多くの妻妾がいた。妻妾のなかでも正妻格だったのが、「摂津守」などの要職を歴任した藤原中正の娘、時姫である。
時姫は兼家との間に、長男の藤原道隆、4男の道兼、長女の超子、次女の詮子、そして、5男の道長を生んでいる。
同母の兄が2人もいた道長には、出世する見込みがなかったといってよいだろう。それにもかかわらず、なぜ、平安時代随一の権力者となれたのであろうか。その要因として、父の出世が「遅かった」ことが挙げられる。
道長の父・兼家は藤原摂関家(藤原氏嫡流)の3男として生まれた。兼家の父、つまり、道長にとっては祖父にあたるのが、村上天皇のもと正二位・右大臣になった藤原師輔(もろすけ)である。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら