「源氏物語」の時代に恋愛が重要視された深い理由 NHK大河ドラマ「光る君へ」で描かれる紫式部の人生

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どこが危ういのかというと、すべてを偶然に頼らねばならない点でしょう。まず、自分に娘が生まれなければならない。しかも、その娘を天皇の妻にして、子どもを産ませなければならない。仮に子どもが生まれても、その子が男の子であるかもわかりません。これは、非常に不安定極まりない。

本来、政治というものは、システムさえ確立されていれば、どんな人が天皇であっても本来は構わないし、言ってしまえばお飾りでも構いません。それを見事に体現したのが、江戸時代の徳川幕府です。徳川家康は「将軍はバカで良い」と割り切り、3代将軍の家光以降は、どんなに無才で問題のある人間であっても長子が跡を継ぐようにと決めていました。

要するに、将軍はお飾りに過ぎず、幕府というシステムでしっかりと政治を運営すれば問題がないと家康は考えていたわけです。実際、徳川家の家臣たちがしっかりとトップを支えていたので、将軍はお飾りでも全く構いませんでした。

しかし、藤原氏の摂関政治においては、誰が天皇の寵愛を受けるか、そして誰が天皇の子どもを先に産むか、という男女の交わりが、政治の行方を決める最大の比重を占めていました。

だからこそ、藤原氏で「自分がナンバーワンになりたい」という権力欲が強い人は、天皇の妻にするにふさわしい年ごろの娘がいることが、最大の武器になります。もしその家に娘が生まれると、息子が生まれたときよりも、一族は喜んだと言われます。

紫式部や清少納言は、妻たちの恋愛を演出する存在だった

でも、娘が生まれたからといって、安心はできません。自分の娘を天皇に嫁がせたからといっても、その娘が子どもを産まなければお話にならないからです。

紫式部の時代にも、藤原氏から嫁いだ定子か彰子のどちらが一条天皇の子どもを産むかでバトルが繰り広げられましたが、彰子が産んだ子どもが次の天皇になったことで、道長の権力が確立されたのです。平安時代では、恋愛関係が政治や権力にそのまま影響することがよくわかります。

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