なぜシャンパンタワーにドンペリが選ばれるのか 日本に欠けているラグジュアリーの視点と可能性

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反対に製造現場の側は、ラグジュアリーを買う人の心の中の虚栄心をちゃんと見据えない。自分だって消費者としては、「これを買い身につける自分が社会的にどう見られるか」とか、記号としての商品の意味を気にすることもあるくせに、生産者としてはその実感を放念してしまう、「かまととラグジュアリー論」である。

流通現場の側は、ラグジュアリーの技巧と品質に立ち入る気もなく、消費者の自己愛と虚栄心ですべてを説明しようとするあまり、短期的視野の施策しか打つことができなくなる(しかも、それを合理的だと自認する)。

結果として、自分から移ろいやすい記号の印象操作に巻き込まれていき、長期的信任を疎かにし、コモディティに近づいていくことになる。いわば「やさぐれラグジュアリー論」である。

日欧のクラフト評価の違い

「かまとと」と「やさぐれ」が併存して統合されないまま、どちらも偏頗になってしまう、日本でのラグジュアリーブランド議論は、なぜこうなってしまうのか。筆者はその原因を、近代化の過程で一度、日本でクラフト、手仕事のものづくりの地位が下落してしまったことにあると思っている。

LVMH本社のスタッフの人々と交流して実感したことだが、彼らの社会では、熟練技巧を持つ職人が手仕事でつくりあげるクラフトは、量産品よりも優れているという確信をずっと持ち続けてきている。

ところが日本では、和装の世界が最もわかりやすいが、手仕事、クラフトに対していったん、「古めかしい和風のデザインが多い冠婚葬祭向けの特殊ニッチ商品」というイメージがついてしまった。

伝統文化とつながって衣食住を支える生活消費財の分野が、「工業化に乗り遅れがちな在来産業」と見なされると、それと近代以後の洋風ファッションへの憧れが相まって、ますます辺鄙な「時代物」としてのニッチに甘んじることが当たり前になる。

冷静に自らのつくる商品の価値の成り立ちを考えることが難しくなってしまうのである。

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