なぜシャンパンタワーにドンペリが選ばれるのか 日本に欠けているラグジュアリーの視点と可能性

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しかし仮に、ドン・ペリニヨンとほぼ同じ味のシャンパンの銘柄が他にあったとしても、それがどれだけ官能的な美味であっても、シャンパンタワーには使いにくい。タワーに注がれるビンに書いてある名前を見て、「あの高価なシャンパンをこんな贅沢な飲み方で使っちゃうなんて!」というショックを目撃者に与えることができないからである。

ラグジュアリーの世界はソーシャルゲーム的

ラグジュアリーの世界は、このような美と記号の2つの現象がセットになってこそ成り立つ。ところが得てして日本社会でラグジュアリーをつくったり論じたりしようとする人たちは、どちらか片方だけで解釈しようとしたがる。説明に一貫性を持たせようとして表面的な話にしてしまう。

ちゃんとラグジュアリーブランドを構築していこうとするなら、そんな浅薄な把握でよいはずがない。ラグジュアリーは、優れた天稟と感性に恵まれたディレッタントと、自己愛に塗れた露悪的な俗物の共犯関係があって成り立つものである。

しかも人数でいえば、圧倒的多数は俗物役を演じるほうである。真ん中にいるディレッタントのつくる美が、ちょうど雪原を転がる石が雪を巻き込んで大きな雪玉になっていくように、「課金厨」的俗物たちの自己愛に包まれて大きなまとまりになっていく。ラグジュアリーの世界はそんなソーシャルゲームである。

この両面の視点からでしかラグジュアリー論は始まりえないと筆者は思っているが、先に論じたように、日本で真面目にものづくりに勤しむ職人と経営者の善男善女たちは、「真面目にいいものをつくっていれば、いつの日か世間が見つけてくれる」というイメージから、なかなか脱却することができない。

しかし、その「至誠天に通ず」的ラグジュアリー観のままでヨーロッパのステータスシンボル化に成功したラグジュアリーブランドを見ると、勘違いしてしまうのである。

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