そして、学内にいたチューターなどに勉強を教えてもらった甲斐あって、大学3年生のときに私立の龍谷大学に編入することができた。
3年生からの編入だったため、単位の取得に追われることもなく、無事に卒業。しかし、せっかくランクの上がった大学を卒業しても、彼自身は学力が上がらなかったことに不満を抱いてしまう。
そこで、濱井さんは契約社員として就職した証券会社を10日足らずで辞めて、また新たに大学に入り直すことを決意する。
こうして昼は再就職した配置薬会社にて、置き薬の営業マンをしながら、夜は予備校に通う生活が始まった。
ただ、社会人になったため、当然ながら奨学金の返済も、毎月1万4000円ずつ始まっていた。
「日中の営業マンの基本給は18万円でボーナスはなかったので、働き始めた頃は奨学金の返済はかなりの負担でした。ただ、当時の会社ではインセンティブがあって、それに救われました。
60万円のボーダーラインを超えて1万円売り上げるごとに、3000円もらえたんです。最初は多い月で9万円程度の売上だったのですが、最終的には178万円も売り上げたこともあったので、インセンティブを含めて50万円になっていました」
営業マンと予備校通いの生活を2年半続けた結果、濱井さんは300万円の貯金を貯めることができた。そこからは受験一本に絞るために会社を辞め、これまで働いていた時間も予備校での勉強に費やすことになった。
そして、27歳の時に早稲田大学教育学部に合格。大阪産業大学での3年間の仮面浪人、龍谷大学での2年の在籍期間、そして社会人になって以降の予備校に通っていた4年間。これらを合わせて9浪となる計算だ。
「会社勤めのときからセンター試験は受けていましたが、もう全然ダメで9浪目の時点で貯金も底を尽きかけていたので、『これが最後の1年だな』とは思っていました。奨学金も毎月の返済額が1万4000円より多かったら、もしかしたらもっと早くに諦めていたかもしれません」
追加で奨学金を借りることはしなかった
こうして、念願だった早稲田大学に通い始めるのだが、ここで追加で奨学金を借りることはなかった。
「最初に借りた奨学金の返済中だったので、追加で借りられるとは思ってなかったんです。そのため、仮に学費が払えなくなったら、『消費者金融で本当の借金をするしかないな』と考えていました。
でも、最終的にまた親に学費を出してもらえました。母がパートを増やしてくれたのと、弟と妹が大学進学しなかったので、そこで本当はかけるはずだった資金を回してもらった感じです。
あとは、父親の退職金ですね。『早稲田に入ったからようやくいい会社にも就職できるから!』と必死で頼み込んだところ、父が出してくれることになって……」
親に感謝してもしきれないが、とは言え、私立大学の学費は高い。そこで、濱井さんは大学独自の給付型奨学金の申請にも応募する。
「受かるとは思っていなかったのですが、早稲田は奨学金が豊富なので、親の年収が800万円以下で、GPAが2〜2.5以上の学生向けの給付型奨学金を受け取る事ができました。1〜3年生まで年に40万円、4年生のときには150万円です。給付型奨学金のおかげで勉強する余裕ができたので、これは本当にありがたかったですね」
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