三浦貴大の神セリフ「貧困は個人の問題じゃない」 ドラマ「東京貧困女子。」監督×脚本家対談【後編】

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高羽:だから、支援団体としては、助けを必要としている人たちに、自分たちの存在を知ってもらう努力をするだけ。この社会のどこかで誰かが孤立して苦しむことなんて望んでいないからこそ、しかるべきサポーターと繋がり、ふさわしい支援を受けてほしい。そのためにビラ配りなど草の根的な広報活動に勤しんでいるというお話でした。

手を差し伸べても、すぐには、その手を誰もつかまないかもしれません。でも差し伸べ続ければ、いつかきっと誰かが気づいてつかんでくれる、という思いで活動されていることが伝わってきました。

フィクションでこそ、できることがある

青木:今回のドラマで、その想いが伝わることも期待したいですね。ニュースでもドキュメンタリーでも真実を伝えることはできますが、残念ながら、進んで見る人は比較的少ないのが現実です。その点、フィクションのテレビドラマはエンターテインメントの1つですから、ニュースやドキュメンタリーよりも視聴者を引き付けやすいというのはアドバンテージではないでしょうか。

高羽:支援団体には、当事者に自分たちの存在を知ってほしい反面、目立つことは避けたいというジレンマがあります。目立つ活動をして認知が広まれば広まるほど、理不尽な妨害を受けるリスクも増えてしまうため、せいぜいチラシを配るくらいで表立った宣伝活動ができないんですね。

その点、比較的ポピュラーな「フィクション」という形をとりつつ、現実に起こっている問題を忖度なく描いたドラマならば、自分たちの組織や活動は目立たないまま、貧困問題に対する社会的な認知、理解が広まるという効果を期待していただいているようです。

青木:支援団体の方々からも「ドラマならたくさんの人が見るので、ありがたい」といった声が寄せられているそうです。表向きは「ドラマ」だけど、実は「綿密な取材に基づくノンフィクション」がベースになっていること、また脚本の高羽さんが実際に現場に赴き、見聞きしたものを反映しているということで、より多くの人たちに届くことを期待しています。

高羽:私としても、フィクションの形にして初めて可能になることもあるんだと、改めて本作の意義を感じています。

この状況に陥っているのは自分だったかもしれない(写真:WOWOW)

青木:初期の摩子のように「貧困を他人事だと思っている人たち」にも、ぜひこのドラマを見てもらいたいですね。そういう人たちが「この状況に陥っているのは自分だったかもしれない」「ゆくゆくこの状況に陥るのは自分かもしれない」と実感するきっかけになればいいですね。そして貧困を今の日本社会が抱える問題として捉えると同時に、「人との繋がり」についてじっくり考えることにも繋げてもらいたい。

高羽:ニュースやドキュメンタリーよりも視聴者を引き付けやすいというアドバンテージでは、ドラマのタイトルにも出ていますよね。

青木:タイトルについても制作サイドでかなり議論したのですが、やはり、とてもキャッチーな響きのある「東京貧困女子。」をメインタイトルとし、サブタイトルには原書の帯にあった「貧困なんて他人事だと思ってた!」を据えました。

このサブタイトルの言葉どおり、貧困を他人事だと思っている人は、おそらく無数にいます。もちろん貧困は女性だけの問題ではないのですが、一人でも多くの人に届くようにするためには、あえてキャッチーなタイトルとするのが得策だと判断しました。

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