変わる世界秩序に食らいついた石橋湛山のもがき 広く、深い時代認識が「小日本主義」を生んだ

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さらに1921年には、そのアメリカが主導する形でワシントン海軍軍縮会議が開かれた。アメリカ、イギリス、フランス、日本の4カ国で太平洋の島々における相互の権利尊重と権利維持をはかる四カ国条約が結ばれたのだが、重要なことはこの四カ国条約の締結をもって、1902年から続いてきた日英同盟が破棄された事実だ。アメリカは、中国をめぐって日本と直接対決するときに備え日英同盟を解消しておきたかった。

要するに1921年という時代は、それまで世界には関わらない孤立主義的な動きをしていたアメリカが国際政治のど真ん中に現れ、アメリカ主導の世界秩序設計を急速に進めようとしているタイミングだった。

――アメリカ主導の国際秩序設計の動きに石橋湛山は気づけていたと。

時代の変化に目が開けていたのだろう。帝国主義も植民地主義も国の利益にならない。朝鮮半島や台湾など明治以降に日本が手にしてきた植民地をすべて棄て、一歩前に出て日本も世界秩序作りに参画すべきだという視界が石橋の中に生まれたのだ。

突拍子もないことを言ったわけでも、理想主義でものを言ったわけでもない。植民地主義の路線で進んでいったら間違うぞ、という指摘であり、要するに石橋は時代認識が広く、深かった。

戦後日本の土台は日米安保だけではなかった

――戦後はソ連や中国など共産圏との関係改善に力を注ぎました。

1956年に内閣総理大臣になった石橋は、吉田内閣の「向米一辺倒」な外交路線を修正し、日米関係を基軸としつつも共産圏との関係を改善させる多角的な国際関係作りに動いた。

そのことをもって石橋を理想主義者だとみる向きがあるが、石橋が総理大臣になった1956年という年の時代状況を冷静に考察すれば、そうではないことに気づくはずだ。

前年の1955年にはバンドン会議があった。音頭を取ったのは中国の周恩来とインドのネルーだ。アジアからの信頼を失っていた日本は、この会議に参加したことでアジアに帰っていくきっかけを得た。アメリカはバンドン会議に反対だったのだが、親米勢力を参加させたほうがアジア色を薄められるという判断から日本の出席を許容した。

バンドン会議に出席した高碕達之助首席代表は秘密裡に周恩来と会談し、ここで日中国交回復の伏線が引かれることになった。

もう1つ注目すべきは、日本が国連に加盟できた理由だ。1951年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結によって日本は国際社会に復帰することはできていた。しかし1952年に申請した国連加盟は、ソ連が拒否権を発動し続けたことで実現しなかった。

それが1956年の10月、ソ連との国交が正常化したことを受けてようやく加盟が実現する。ソ連は拒否権を発動しなかったからだ。戦後日本が国際舞台に本格復帰できた背景にソ連との関係改善があった事実を見落としてはならないだろう。

バンドン会議、日ソ国交正常化、そして国連加盟。一連の流れを見つめると、戦後日本の進路を決めてきたのは日米安保だけではないことがわかる。石橋は時代の潮流を捉え、総理大臣を退いてからも中国、ソ連を訪問して日本との関係改善に努めた。戦後の日本が国際関係を多角化していくうえで石橋が果たした役割は、思想的な面も含めて極めて大きい。

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