もはや障害者枠で働くしかないというハヤトさん。その半生はどのようなものだったのか。
子どものころから内向的な性格だった一方で給食の「三角食べ」の指導に従わなかったり、漢字の書き順で我流を通したりと、こだわりの強さもあった。ただ「友達がいないというわけではなく、学校は楽しかった」。
クラスでも孤立しがちになったのは高校入学後。なんとか居場所を見つけようと、複数の部活やサークルで入退部を繰り返したほか、大学では所属もしていないゼミの飲み会に顔を出すなどした結果、逆に「周りを困惑させていました」と振り返る。
「人と関わりたい気持ちはあるが、溶け込み方がわからない。独りは寂しいが、かといって仲良くなるためにファッションやバイクなどの流行りものに興味を持つ気にもなれない。自分でも勝手だとは思うのですが……」と自身を分析する。
就職後は生きづらさに拍車がかかる。初職は量販店の販売員で、正社員だった。しかし、複数の作業を同時にこなすことが、とにかくできなかった。例えば、商品の補充をしているときに客から質問をされたり、先輩から別の業務を指示されたりすると、仕事の効率が大幅に落ちるか、指示されたこと自体を忘れるかのどちらか。結局数カ月で辞めた。
「リーダー業務」は最も苦手なマルチタスク
その後は事務職系の仕事を中心に非正規雇用での転職を繰り返した。上司から「バカ野郎」「何回言ってもできないな」と罵倒されたり、古い伝票を束ねるときのひもの結び方が下手だと言われ同僚の前で繰り返し“練習”させられたり、給料を払ってもらえなかったり、電話対応ができずに雇い止めにされたり――。
ひとつの会社を定年まで勤め上げた父親からは「仕事を転々とするのはダメだ」と叱責された。ハヤトさん自身も「働かざる者食うべからずという価値観がぬぐえない。無職でいることに罪悪感や屈辱感がありました」と言い、失業してもすぐに別の仕事を見つけた。
しかし、追い立てられるように転職しても長続きしない。次第に「このままだと本当に行くところがなくなる」と不安が募った。30代なかば以降はできるだけ同じ会社で働き続けようと踏ん張ってみたが、今度はメンタルが悲鳴を上げた。勤続期間は多少伸びたものの、頭痛や不眠などの症状が現れ、適応障害の発症を繰り返すようになったのだ。
勤怠は真面目だったので、長く働くとリーダー業務を任されがちだったことも災いした。新人を取りまとめながら上司ともやり取りするのは、最も苦手なマルチタスク。ミスをしては謝罪する日々にストレスを覚え、リーダー業務を断ると「次の更新は難しいかも」と雇い止めを示唆された。
このころ、周囲からはたびたび「他責はいけない」「つねに感謝の気持ちを持て」と“アドバイス”されたという。面と向かって言われたことがないが、会社で発達障害のある人とかかわったせいで上司や部下のほうがメンタルに不調をきたす「職場内カサンドラ症候群」という言葉があることも知った。ハヤトさんなりに休職したり、勤務時間を短縮したりと試行錯誤してみたものの、限界が近いことが自分でもわかった。
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