そんな父、家康の思いを知る由もない秀忠。上洛しようとするが、秀吉からこんな申し出があった。
「幼少であり遠路は困難だろうから」
そう言われたので、途中で逗留していたところ、その判断が問題視される。
先に上洛を果たしていた家康は、秀忠が向かっていないことを知って「すぐさま上洛するように」と書状で叱責。秀吉からの気遣いがあったとしても、それを固辞して上洛しなければ、秀吉への忠誠は示せない。家康はそう危機感を募らせたのである。
自分の父がこれだけ気を遣う秀吉を、秀忠も恐れたに違いない。秀忠が上洛すると、秀吉の母である大政所自らが秀忠の髪を結い、秀吉が秀忠の頭に櫛を入れて調えている。着物や袴も新調してもらうなど、秀吉のご機嫌ぶりが、ありありと伝わってくる。
秀忠が2年後に再び上洛を果たすと、従四位下侍従に叙任され、秀吉の名前を一字もらい受けて、このときから「秀忠」と名乗るようになる。
決死のアバンチュールが名側近を生む
こんな経緯を踏まえてみれば、豊臣家から迎えたお江に対して、秀忠が下手に出るのも無理はない。
そうでなくても、お江は戦国の世を渡り歩き、すでに2度の結婚と出産を経験している。人生経験が豊富なお江は、23歳とは思えないほど、どっしりしていたことだろう。
そんな妻を恐れて秀忠が1人も側室を持たなかったのは、冒頭で書いた通りである。父の家康が2妻15妾をもったのとは、対照的だ。生真面目な秀忠を案じて、家康が美女を寝床に送り込んだが、秀忠はそれを追い返したという逸話もある。
だが、そんな秀忠も思い切った行動に出たことがあった。お静という女中とこっそり関係を持って、幸松という子を産ませている。お江を恐れて、城外で産ませたうえ、秀忠が対面することは許されなかった。よほど恐ろしかったのだろう。女中を妊娠させたとき、秀忠は家康にどうするべきか相談しているくらいである 。
とはいえ、夫婦仲が悪かったわけではない。恐妻家のほうが、夫から大切に扱われるため、夫婦仲がうまくいくとも言われたりするが、秀忠はお江との間に、3男5女をもうけている。
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