秀忠がお江を妻に迎えたのは文禄4(1595)年、17歳のときのことだった。お江は6歳年上の23歳である。
いわゆる姉さん女房であり、かつ、お江にとっては、これが3度目の結婚だった。実は秀忠もかつて、織田信雄の娘で秀吉の養女となっていた小姫と祝言を挙げたことがあるが、相手が早世した。これが事実上の初婚である。
また、お江は最初の結婚で2人、次の結婚で1人の子をすでに産んでいた。この時点で秀忠との力関係も決まっていたようなものだが、気の毒なのはむしろ、お江のほうだった。
お江は、近江で浅井長政の3女として生まれた。母は織田信長の妹、お市の方である。
信長によって浅井家が滅亡すると、幼い3姉妹は秀吉に引き取られることになり、お江の運命は大きく変わる。秀吉の政略結婚の道具にされ、結婚と離縁を繰り返すことになったのだ。
お江の姉、茶々は秀吉の側室に
一方、お江の姉、茶々は秀吉の側室、淀殿となり、秀吉から寵愛を受けることになる。
お江が秀忠と3度目の結婚に至ったのも、もちろん秀吉の意向である。淀殿との間に、待望の世継ぎとして秀頼を授かった秀吉としては、台頭してきた家康のことが気になって仕方がない。
老獪な秀吉のことだ。お江を徳川家の秀忠に嫁がせて、家康の後継者を豊臣家に取り込んでおこうと考えたのだろう。
一方、家康もまた有力大名とはいえ、この頃は豊臣家の家臣に過ぎない。豊臣家との関係性を強化したいという思いがあり、秀吉と家康の利害は一致することになったのである。
このように何かと政情に振り回されるのは、秀忠の人生の常だったといってよい。こんなこともあった。
天正17(1589)年、秀吉が諸大名に「妻子上洛令」を出すと、家康は11歳の秀忠を上洛させようと考える。
秀忠は3男だったが、長男の信康はすでに切腹しており、次男の秀康は母の身分が低く、城外で育てられている。秀忠は生まれたときから、家康の後継者として最有力候補だった。そのため、家康は秀忠を秀吉に早く会わせる必要があると考えたのだ。
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