東京通信工業が「SONY」になったナルホドな経緯 世界中で通じる名前をいかにして考えたか
私としては日本式も良いですが、アメリカのやり方も悪くなかったですし、非常に楽しかったです。やりがいもありました。
製品計画は、東京本社の製造部がやってくれます。ソニー・アメリカは、その中から売れそうなものをチョイスして売るわけです。
さらにソニーには、半導体主体で攻めるというよりも、アメリカになかった商品を売っていくという考えがありました。また、ソニー・アメリカで、私は、組織を販売と生産に分けて、安藤国威さんに生産部門のトップをやってもらいました。
1980年代後半から日本が一番の上がり調子だった理由
私は、日本で工場を作ることを得意としていましたから、その手腕をアメリカでも発揮して、製造をいかに効率よくして、そこから利益を出させるか。それから販売をいかに効率よくやるかに注力しました。ラジオ、テープレコーダー、メインはトリニトロンのカラーテレビ。それからVTRも扱いました。そして、各工場の従業員にやる気を出してもらえるよう何度も現地に足を運びました。
1980年代の後半から90年代の前半は、ソニーというより、日本は一番の上がり調子の時期で、マンハッタンの有名なビルを日本企業が買ったりしていました。
ソニーは、1988年にCBSレコードを買収したり(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)、1989年にハリウッドの映画会社コロンビア・ピクチャーズエンタテインメント・インク(現在のソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)を買収したりと、大型の投資を続けていました。
どうして日本はこんなに伸びているのかということを、アメリカ人からよく聞かれました。また、スピーチをしてくれと頼まれてよく話したことがありました。
私の答えは極めて簡単で、「アメリカ人よりうんと働いた」と。私も本当に働きまくりましたから。
終戦後しばらくは、残業時間は何時間という規制や強制的に休暇を取らなければいけないことなどありませんでしたし、それこそみんな死ぬ気で働いたものです。私がアメリカへ行ったのは、日本が豊かになって、みんなだんだん働かなくなってきた頃です。アメリカの若い人たちのほうが、よほどよく働いていました。「あなたたち、このまま頑張ったら必ず良くなるよ」と話をしたものでした。
要するに、日本人が優れているわけでもなく、よく働いたから調子が良かったというわけです。人間っていうのは、あなたが1でこっちが10、なんてことはありえない。だいたい10と10ぐらいで、あとは働く時間の差で勝負がつくみたいなものです。「だから、日本が伸びているのは決して不思議なことでもないし、珍しいことでもないよ」と、アメリカ人に説明しました。
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