東京通信工業が「SONY」になったナルホドな経緯 世界中で通じる名前をいかにして考えたか
松下さんが、『National』ブランドで海外へ進出したとき、すでにいろんな国で同じブランド名があって、海外用に『Panasonic』を作ったのですが、われわれは、その話を知っていたので、結構お金がかかったと思いますけど、100カ国以上で商標登録をしました。だから世界で通じるようになったと思います。
あの頃、ちょっとこれはいい名前だと思うと、みんなまねをして名前をつけました。日本でも、ソニーがちょっと良くなったら、飛行機に『SONY』と書いたおもちゃが出たりしました。
これらの動きに関しては、昭夫が、先見の明というか、大事なところにはちゃんと投資をしてやるということに関して非常にうまかったです。
そして、1958年に、社名が東京通信工業株式会社からソニー株式会社に変更されました。ちなみに、テープレコーダーの開発をやっていたとき、『SONI‐TAPE』(ソニ・テープ)と書いたものがありました。『SONI』もソニーの登録商標です。
ソニーが海外市場を開拓する必要性は、いつも考えられていました。
あの頃、海外で日本製と言えば、例えば、ナイアガラの滝のおみやげ店におもちゃが置いてあって、それを見ると「メイドインジャパン」と書いてありました。残念ですけど、メイドインジャパンと言うのはあまり良いもののイメージではありませんでした。少し前の中国製品がそうでしたね。メイドインジャパンは、世界中どこに行っても、おもちゃの安物というイメージがありました。そのときに昭夫は、「やはり胸を張って売れるものを世界に作りたい」と感じたといいます。
当然のことですが、そのためには、よその会社がやらないことをやろうという井深さんのポリシーも必要でした。
日米半導体戦争の真っただ中、アメリカへ
私がアメリカに初上陸したのは、20代の頃でした。ありがたいことにアメリカを見て勉強してこいと言ってもらえたのです。サンフランシスコから南を回ってニューヨークに行きました。
当時の飛行機は、サンフランシスコまでノンストップで行けず、日本とハワイの間にあるウェーク島に着陸して、アメリカ軍の基地がある場所で燃料補給をしました。
それからハワイに行って、サンフランシスコに着きます。
当時のアメリカには、日本になかった高速道路があって、ものすごい数の自動車が走っていました。これは戦争で日本がアメリカに負けるはずだというのが第一印象でしたね。