東京通信工業が「SONY」になったナルホドな経緯 世界中で通じる名前をいかにして考えたか
ソニーにとってアメリカは非常に大きな市場と考えて、ソニー・アメリカ(ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ=以下ソニー・アメリカ)は、昭夫が渡米して1960年にソニーのアメリカ本社として設立。当初は販売会社としてスタートしました。その後、日米貿易摩擦の影響を受けて、アメリカ現地での生産を始めるようになっていきます。
1980年代、日本経済は好調でした。円安で輸出企業にとって有利に働きました。その中でも半導体産業は、1988年に日本のシェアが約50パーセントに達していました。日本は、随時読み出し/書き込みができるDRAMという半導体メモリで技術的に優位に立っていました。半導体は〝半・導体〞であり、絶縁体と導体の中間、電気を通したり、通さなかったりする機能を持つものです。
ソニー・アメリカを製造で利益が上がる会社に変える
ところが好事魔多しで、こうした日本の躍進に対してアメリカでは日本脅威論も噴出して、日米貿易摩擦が起こり、1980年代から1990年代にかけて日米半導体戦争が繰り広げられました。
アメリカからしてみたら、自分の〝オハコ〞を取られた感じで、半導体インダストリーにとって、ものすごいショックだったのでしょう。そうすると、アメリカのロナルド・レーガン大統領が仕掛け人となって、1986年に不平等といわれた日米半導体協定(第1次1986〜1991年、第2次1991〜1996年)が締結されました。1996年に協定が終了したときには、バブル崩壊と円高も相まって、日本企業は弱体化していくのです。
日米半導体戦争が繰り広げられていた1987年に、私は、ソニー・アメリカへ行くことを志願しました。ソニー・アメリカは、ソニーのうちの3分の1くらいのマーケットを占めるぐらい大きかったです。3分の1がアメリカ、3分の1がヨーロッパ、日本を含めたほかの地域が3分の1という割合でした。
私が赴任した頃、アメリカにはサンディエゴなどに工場があったのですが、あくまで販売が主体で、社内には〝販売が上で製造は下〞という妙な意識が根付いていました。
私は製造をやってきたので、プロダクションから利益を生むのが製造会社の役目で、販売会社の言うとおりに製造をやっていても儲かるはずがないと考えていました。
ソニー・アメリカの損益を見ると、決して良くなかったのです。ソニーグループの大きな割合を占めるソニー・アメリカを何とか良くするには、私は製造で利益が上がる会社に変えなければ、1つの会社としてはやっていけないと思いました。だからこそ、私は60歳になっていましたが、やらせてほしいと言ったのです。