丘(おか)浅次郎も石川千代松と似たような経歴を歩んだ。明治維新の年1868年に生まれ、大阪で新政府の官僚の息子として育った。
しかし幼少期は悲劇の連続だった。妹が着物の燃える悲惨な事故で命を落とし、翌年には両親も世を去ったのだ。一人残された丘は東京に移って親戚に育てられた。
石川と同じく東京帝国大学で動物学を学び、1891年に卒業した。そしてドイツへの留学生に選ばれ、同じくフライベルク大学でアウグスト・ヴァイスマンのもと研鑽を積んだ。
1897年に日本に帰国して、東京高等師範学校の教授となった。それから数十年にわたって、日本に進化論を広める中心的な役割を果たした。
東京高等師範学校での講義をもとにした著作『進化論講話』(1904)は売れに売れた。
また丘は自身でも進化論に数々の重要な貢献を果たした。
丘によるコケムシの観察
丘の専門はコケムシの生態学だった。この奇妙な生物は高名なドイツ人生物学者エルンスト・ヘッケルによって研究されていて、丘もドイツ語でそれを学んだのだろう。植物と動物の境界線をあいまいにするような存在だった。
コケムシの個体は何千万もの単細胞生物の群体から構成されている。それらの細胞が集まると、植物そっくりの構造体を作りはじめる。
丘は東京のあちこちに出向いては自分の手でコケムシを採集した。水たまり脇の下草の中を探して小さなガラス瓶に標本を採り、研究室に持ち帰っては顕微鏡で観察した。
丘いわくコケムシは、自然界をさまざまな生物種に分けるという生物学者の方法が間違いであることを物語っている。「明確な境界線を引くのは不可能である」。
これはダーウィン『種の起源』の礎となった発想そのものだ。ある生物が別の生物に進化しうるとしたら、それを特定の生物種と表現することに何の意味があるだろう?
丘はこの考え方をさらに推し進めて、動物と植物など、自然界のもっとも基本的な区分すらももはや意味がないと論じた。
動物がときに植物のように、植物がときに動物のように振る舞う。「自然界に見られるものはすべて変化の連続である」と丘は結論づけている。
丘が著作『進化論講話』を世に出した1904年、日露戦争が勃発した。日本軍とロシア軍が朝鮮半島と満州の覇権をめぐって18カ月にわたり戦火を交えた。
20世紀で初となるこの近代戦で20万の命が失われた。最終的に日本が勝利したが、多くの日本人は戦争の意義に疑問を抱いていた。
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