明治期の日本人は進化論をどう受け止めたか? 政治思想にも影響を与えた「生存競争」の概念

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モースは話を続け、自然界もこの講堂のように「食料の不足した閉じられた空間」のようなものだと語った。そのような場面設定では、もっとも強い者だけが生き残って、自分の身体的特徴を後世に伝える。

「この状況が何年も続いたら、未来の人間は現在の人間とまったく違ってくるだろう。力が強くて凶暴なタイプの人間が生まれるだろう」とモースは締めくくった。

それから数週間にわたってモースは進化論に関する講義を続けた。2回目の講義では「生存競争」の概念をさらに突き詰めた。東京大学の聴衆が耳を傾ける中、「戦いで役に立つ形質を持った集団がもっぱら生き延びる」と唱えた。

また、適者生存においては技術的進歩が重要であると説明した。「当然ながら、金属製の武器を作れる集団は骨や矢で戦う集団を打ち負かす」。自然選択は「進んだ種族が生き延びて遅れた種族が滅びる」という原理にほかならない。

戊辰戦争を経験した生物学者

このような軍事への喩えは、19世紀の進化論には付きものだった。

日本でもそのような話にはとりわけ説得力があった。この10年足らず前、日本人は激しい内戦に巻き込まれた。1868年に何人かの武士が同盟を結び、徳川幕府を転覆すべく戦いを始めた。

彼らは、将軍が日本の近代化を妨げていて、外国の軍事的圧力に対しても弱腰だと考えていた。武士たちは江戸まで進撃して幕府軍を倒し、若き明治天皇を皇位に就けた。こうして明治維新と呼ばれる改革が始まった。

東京大学でモースの講演を聴いていた聴衆の中に、この内戦をじかに経験した若き日本人生物学者がいた。その人、石川千代松は1861年に江戸で生まれた。

将軍に仕えていた父親は、日本古来の博物学や医学に関する著作を大量に集めていた。そのため少年時代に石川は、貝原益軒『大和本草』(1709~1715)などといった書物の多くを学んだ。

そうして博物学、とりわけ動物学に強く惹きつけられた。毎年夏には江戸湾沿岸でチョウやカニを採集した。

しかしそんなのどかな状況がいつまでも続くことはなかった。内戦が勃発して幕府方の人間が追われ、石川の一家も江戸から逃げ出さざるをえなくなった。

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