明治期の日本人は進化論をどう受け止めたか? 政治思想にも影響を与えた「生存競争」の概念

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石川は1889年に日本に帰国して、東京帝国大学で教職に就いた。それから何年にもわたって新たな世代の日本人生物学者を育て、その多くが進化論に重要な貢献を果たす。

ほかの多くの国と同じく、ダーウィン進化論は明治日本の近代化と密接に結びついていた。「生存競争」の概念は生物学者だけでなく政治思想家にも響いた。産業化と軍備増強の必要性を裏付けているとみなされたのだ。

東京大学でのモースの講義に出席した政治学者、加藤弘之(ひろゆき)は、1894年から1895年にかけての日清戦争の直前に次のように述べている。

「自然選択による生存競争は、動植物の世界に当てはまるだけでなく、人間の世界にも同じ切迫性を持って通用する。この宇宙は一つの広大な戦場である」

日本の博物学者が受け入れていた考え方

ダーウィンの学説が人気を集めたのは、多くの日本人博物学者が以前から信じていた事柄を裏付けているように思えたためでもあった。石川も少年時代に日本の自然史に関する旧来の著作を通じて理解していた事柄だ。

17世紀の日本人博物学者、貝原益軒は、「すべての人間は両親のおかげで生まれたのだと言えるが、その起源をさらに掘り下げると、人間は生命の自然法則ゆえに誕生したことが明らかとなる」と記している。

ヨーロッパのキリスト教圏と違って、日本の博物学者は以前から、すべての生命が何らかの共通の起源を持つという、仏教にも神道にも見られる考え方を受け入れていたのだ。

モースもそのことに気づき、「祖国と違って神学的先入観に邪魔されずにダーウィン理論を説明できて幸いだった」と記している。

19世紀初頭の仏教哲学者、鎌田柳泓(りゅうおう)は独自の進化論まで編み出していた。

1822年、ダーウィンがわずか13歳のときに鎌田は、「すべての動植物は一つの種から分岐して多数の種になったに違いない」と書き記している。

このように日本では、進化論の基本的な考え方は目新しいものではなかった。しかしそのメカニズムは目新しかった。「生存競争」というダーウィンの概念は日本人生物学者の想像力をしっかりととらえたのだ。

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