明治期の日本人は進化論をどう受け止めたか? 政治思想にも影響を与えた「生存競争」の概念

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1870年代に戻ってきたときには、すでに将軍は退位して、江戸は東京と改称されていた。父親は幕府での地位を失ったが、それでも明治維新は石川に新たなチャンスをもたらした。

1877年に明治天皇が東京大学(旧制、のちに東京帝国大学と改称)の創設を認可した。理学部を備えた日本初の近代的な大学である。それに続いて新たな大学がいくつも作られ、1897年には京都帝国大学が、1907年には東北帝国大学が創設された。

明治維新の間に進められた近代化計画の一環で、そのほかにも全国に研究所や工場、鉄道や造船所が建設された。それとともに日本政府は外国の科学者や工学者を雇いはじめ、新たな教育機関の多くで教鞭を執らせた。

ダーウィンの熱心な信奉者

それまでハーヴァード大学比較動物学博物館に勤めていたモースも、東京大学で生物学を教えるために招かれた一人だった。

1868年から1898年までに明治政府は、おもにイギリスやアメリカ合衆国、フランスやドイツから6000人を超す外国人専門家を雇い、日本で教えさせた。以前の時代からの大きな政策転換だった。徳川幕府は外国人の入国を厳しく制限していたのだ。

石川はそんな明治維新後の改革の恩恵をいち早く受けた一人だった。創設時の1877年に東京大学に入学し、モースに師事した。

毎年モースは石川たち学生を、横浜の南にある小島、江の島に連れていった。この島で石川は、水中から各種海洋生物を採取し、顕微鏡で観察して解剖するという、近代的な生物科学の基本的手法を身につけた。

モースはハーヴァード大学時代に『種の起源』を読んでいて、チャールズ・ダーウィンの熱心な信奉者でもあった。江の島旅行の最中には、長い時間をかけて学生たちに進化論の原理を説いた。

実はモースに東京大学で進化論の連続公開講義をおこなうよう勧めたのは、自然選択の概念に魅了された石川だった。また、モースの講義の内容をのちに日本語に翻訳して、『動物進化論』(1883)というタイトルで世に出したのも石川である。

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