これを企業にあてはめると、創業者、および創業一族は、経営規模が拡大し、より大きな規模の利害関係者が生じた時点で、ガバナンスの構築に全力を挙げ、経営から手を引いて、経営や人事に影響力を行使できない割合まで、保有株式を引き下げるべきである。
その事業は、すでに公益性、すなわち人々の生活を良くし、社会がより豊かになるための経済活動にシフトしており、またそこで働き、取引をする人々の利益や価値観を保証する「公器」としての性格を強めているからである。したがって、企業の公益性が低くなることは、必然的に社会全体の規範や倫理が低下することにつながるから、創業者や創業一族が私益を追求することは、反社会的集団の存在を許すことを意味する。
そして、創業者と創業一族は、みずから第一線を退くことで、人々に「功利」以上の社会的価値、「公益」の存在を明示し、その後の実質的経営にぶれが生じた場合、その存在によって企業の精神的団結をもたらすべきではないだろうか。それこそが、創業者にしかなしえない「礼」である。
一族経営は、親族の苦労や努力の歴史を継承することで、その経営方針や理想の一貫性を維持することに有効であり、本質的に悪いものではない。しかし、2社のように、そもそも私益性が強い組織では、むしろ規範意識や倫理観の欠如した、身内意識ばかりが強く、反社会性を育み、隠蔽する体質を強める。
風通しの良い「公器」としての企業
そうすると、両社の一族経営による隠蔽体質やハラスメント気質を、日本の企業風土として批判することは表面的であり、本質的な改善にはならない。まして、両社の収益を維持するために一族経営をやめたところで、それに関係する一般企業において、利益の確保が最優先になる限り、そこには相変わらず従前の利益を維持するための不正や隠蔽が残ることは必至であり、看板の掛け替えでおためごかしをしようとする姿勢は、人々によって容易に見抜かれる。
したがって、両社の一族経営を解体することはもちろん必要だが、それ以上に、この二社の存在を許してきた、社会や企業における「功利」の存在に目を向け、ガバナンスの必要性の裏にある、「礼」の思想への欲求を、もっと真剣に考えてみるべきではないだろうか。そうした時にはじめて、一族経営の長所による安定を図りつつ、風通しの良い「公器」としての企業が生まれ、社会の安定と公益の確保ができると思う。
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