あれだけ書簡では「光秀を討つ」と言いながら、家康はまったく間に合わなかった。重臣である酒井忠次が、秀吉から次のような書状を受け取ったのは、6月17日だったとされている。
「上方が平定したから、早々帰陣せられたし」
秀吉の得意満面な様子が文面から伝わってくるようだ。このとき、忠次は津島まで進んでいたが、すぐさま家康のいる鳴海に引き返し、事の次第を伝えている。目まぐるしく状況が変わるなか、家康は上洛をとりやめている。
しかし、秀吉に先を越されてしまい、家康が悔しがったとは思えない。信長の仇討ちよりも、自身の足元を固めることに注力した節がみられるからだ。「伊賀越え」を成功させて三河に帰った日、家康はすぐに岡部正綱に書状を出している。
「此の時に候間、下山へ相うつり、城見立て候て、ふしんなさるべく候。委細、左近左衛門申すべく候。恐々謹言」
領国である駿河から、国境を超えて甲斐に侵入し、下山に築城せよ――と、命じている。命じられた岡部正綱はもともと今川家の家臣で、今川氏が滅亡すると、信玄に仕え、さらに武田氏の滅亡後は家康に従った。岡部一族で名を馳せた岡部元信は、正綱の弟とも言われているが、定かではない。
いち早く土地を抑えるべく、手を打つ
その正綱に家康がすぐさま築城を命じたのは、甲斐国巨摩郡にある下山が、穴山信君の領地だからだ。信君は「伊賀越え」をしようとする家康を「うたがひ奉りて」(『三河物語』)、つまり、信じることができずに別行動し、その結果、落ち武者に殺されている。領主がいなくなった土地をいち早く抑えるべく、家康はすぐに手を打ったのである。
家康は約1週間後の6月12日、甲賀の和田八郎(定教)あてに礼状を送っている。定教はもともと近江の黒田の城主で、織田信長に属していたが、のちに流浪して甲賀に住んだ。家康の伊賀越えのときには、甲賀の山中で忠節を尽くしたため、家康は、起請文をつかわして、その身の上を保証している。
さらに、家康は甲賀武士から数人を旗本にして、出世させた。信長亡きあとの次なる展開に備えて、家康は信頼できる人材の確保にも尽力していたようだ。
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