とはいえ、のんびりしている暇はない。家康は同日の6月4日に、信長の家臣である蒲生賢秀(かたひで)と氏郷の父子に対して、書簡を出してこんな決意を述べた。「惟任(これとう)」とは、光秀のことである。
「信長年来之御厚恩難忘候之間、是非惟任儀可成敗候」
信長から受けた長年の恩は忘れ難い。明智光秀を成敗しようではないか――。
今にも明智を討つべく、飛び出していきそうな勢いだが、その言葉とは裏腹に家康の腰は重い。もともとは6月11日に出陣するはずが、雨が降り続いたため、いったんは見送っている。その後も延期を繰り返した結果、岡崎を出発して尾張の鳴海に到着したのは、14日のことだった。
家康とは対照的だった秀吉のスピード感
6月14日、家康は美濃の地侍である吉村又吉郎(氏吉)に書簡を出し、次のように弔い合戦に挑む決意を述べた。
「今度京都の様外、是非なき儀に候。それについて、上様御弔として我々上洛せしめ候」
「京都の様外」とは「本能寺の変」のことだ。これから上洛すると意欲を見せている。この書状の添状として、石川数正と本多忠勝が連名で、吉村又吉郎に光秀を討つための支援を求めた。
家康の筆はまだ止まらない。同日付に美濃の地侍である佐藤六左衛門尉にも書簡を出して、「逆心の明智討呆たすべき覚悟にて」と胸中を明かしながら、佐藤だけではなく、美濃の地侍である日根野弘就(ひねのひろなり)と金森五郎八長近にも、上洛への協力を求めた。
一見、「光秀を討つ」ことに家康が躍起になっているようにもみえるが、文面から察するに、吉村又吉郎も佐藤六左衛門尉も、ともに「家康のもとに馳せ参じる」と、自分たちから申し出たらしい。それに対して、家康は「自身も同じ考えだから、サポートしてくれ」と言っている。
しかし、家康がそんなことをしているうちに、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉は、備中高松城(岡山県岡山市北区)から、山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)へと、猛スピードで駆けつけていた。語り草になっている秀吉の「中国大返し」だ。
家康が出陣する前日にあたる13日の時点で、秀吉は山崎の戦いにて、すでに明智光秀を討っていた。
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