ここで最後にもう一度、第2回の記事「「教養」を習得すべき"たった1つ"の本質的理由」で紹介した加藤典洋の『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。幕末・戦後・現在』を思い出してみましょう。
これまでの議論を振り返って改めて気づくのは、加藤の言っている「どんなことが起こっても、これだけは本当だと思うこと」に向き合うことと、フランクルが言う「生きることがわたしたちからなにを期待しているか」を真剣に考えることは、じつは同じことを意味しているのではないかということです。
「1人ひとりは微力だが無力ではない」
私たち1人ひとりはとても弱い存在です。でも、私たちに何もできないわけではありません。
「1人ひとりの力は微力だが無力ではない」という言葉があります。
これは、核兵器廃絶と平和な世界の実現を求め、ヒロシマ・ナガサキの声を世界に届けるために「高校生1万人署名」活動を行っている「高校生平和大使」のスローガンです。
平和教育・地雷・小型武器・子ども兵の問題に取り組む国際協力NPO法人テラ・ルネッサンスの鬼丸昌也代表も、「我々は微力であるかもしれないが決して無力ではない」という言葉を使っています。
同様の考えは、時代を遡れば、「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一にも見られるものです。
「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させる」という合本主義を唱えた渋沢は、微力な滴が寄り集まれば勢いのある大河になると言っていました。
たとえば、第一国立銀行の株主募集布告のパンフレットで、渋沢は株式の意味を次のように説明しています。
このように、たとえ微力であったとしても、今日一日をしっかりと生きようとするその姿勢が、「あなた」という存在に意味を与えるのです。
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