"大哲学者"が問い続けてきた「生きることの意味」 「あなたという存在」に意味を与える生き方は?

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じつはこれに対して、「合理主義哲学の祖」と呼ばれ、哲学者であると同時に数学者でもあり、論理の確実性と明確性を追求したルネ・デカルトは、『方法序説』の中でストア派の考えを次のように真っ向から否定しています。

「わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気づいていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った。
 これと反対に、習俗を論じた古代異教徒たち(ストア派)の書物は、いとも壮麗で豪華ではあるが、砂や泥の上に築かれたにすぎない楼閣のようなものであった。かれらは美徳をひどく高く持ち上げて、この世の何よりも尊重すべきものと見せかける。けれども美徳をどう認識するかは十分に教えないし、かれらが美徳という美しい名で呼ぶものが、無感動・傲慢・絶望・親族殺しにすぎないことが多い。」

どちらが正しいとか間違っているとかいうことを、ここで論じるつもりはありません。それぞれの立場で考えてもらえれば結構です。

ただ、私が理性に重きを置きすぎる大陸合理論になじめず、ストア派やイギリス経験論のほうにより親近感を抱く理由は、こうした両者の違いにあるのだろうと思っています。

多様性が尊重されるべき理由

このような哲学の系譜については改めて論じることとして、『夜と霧』に話を戻すと、フランクルが言うように、自分の人生は自分で生きるしかないのです。

私たちは、他人の人生を生きることもできなければ、他人に自分の人生を生きてもらうこともできません。長い時間をかけて1つひとつの人生を積み上げてきた「あなた」の代わりになる存在は、この世のどこにもいないからです。

私は人間社会において多様性が尊重されるべき根拠というものを、ここに見出しています。

一般的には、多様性が尊重されるべき根拠は、生物学的な種の生存可能性やそれとのアナロジーでの企業の競争力といった視点で論じられることが多いと思います。

これに対して、私自身はこうした人生の「一回性」「代替不可能性」にこそ、人間の多様性が尊重されるべき根拠があるのだと考えています。

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