どのように生きるべきかを考えるのは、とても大切なことです。
でも、考えるだけでは意味がありません。あなたが具体的な一歩を踏み出さなければ、あなたの人生は駆動しないからです。
大切なのは、自分はどう生きるのかという問いであると同時に、その実践なのです。
フランクルは、「生きることの意味」について、次のように語っています。
「具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。
わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。」
実践を重視したストア派哲学
古代ギリシヤのストア派の哲学者エピクテトスは、その著書『語録』の中で、「あなたに何が起こるのかは問題ではありません。大事なのはあなたがそれにどう対応するかです」と語っています。
同様に、ストア派を代表する哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、日記として綴った『自省録』の中で、「善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ」と自らを戒めています。
ストア派というのは、古代ギリシヤ・ローマの哲学の一派で、ストイック(禁欲主義)という言葉の語源になったものです。
自らに降りかかる苦難などの運命とどのように対峙し、いかに心の平穏を得ていくかを追求した一派で、私はこのストア派の思想を、自分の生き方の参考にしています。
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