没後4年、芥川賞作家「田辺聖子」今も心打つ生き方 大阪を愛し、大阪弁を愛した「おせいさん」

✎ 1 ✎ 2 ✎ 3
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

1956年に書いた『虹』で大阪市民文芸賞を受賞。本格的な作家活動に入り、恋愛をテーマにして大阪弁を取り入れた小説の創作に取り組んだ。そして1964年、大阪弁を用いた『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』で芥川賞を受賞する。

「芥川賞もいただいても、ちっともうれしくなかったの。これから後のほうが大変ですもんね。

一足前に直木賞いただいてらした司馬遼太郎さんのところにご挨拶に行ったときに、司馬さんは『もう書けないかもしれない、どうしよう』なんて言いましたら、司馬さんが『心配せんでもええねん。あんた、向こうは練習させてくれはんのやと思うて書いたらええ』って。

とってもやさしくて。そういうことを聞いて、『ああ、そうかしら。練習、練習』と思っちゃった。厚かましいわね」

嫁いだ先は、10人の大家族

大きな転機が訪れたのは38歳のとき。4人の子を持つ開業医・川野純夫と結婚したのだ。嫁いだ先は、10人の大家族だった。川野はエッセイにも「カモカのおっちゃん」として登場し、読者に親しまれた。

「私、なんで若いときに結婚しなかったかというと、男性が恐かったのね。何考えているかわからへん。それであんまり(しゃべる)機会もなかった。しゃべらへん分、小説に書いてた。

(中略)社会的な出来事をしゃべったのは結婚してからおっちゃんとでしか(ない)。おっちゃんはおしゃべりやから。『そのとき、あんたはどない思ってん?』『う~ん、そうね』なんて言いながらしゃべったのね。『あんた口数少ない言うけど、ウソつけ。ようしゃべってるやないか』『しゃべってますか、私』。

そんな感じだったの。こんだけしゃべれるんだったら大丈夫と思って」

「『こんなに朝も昼もしゃべってんのやったら、いっそ一緒になろうか』。『しゃべる時間多くなるやないか』と言うの。『しゃべる相手もいっぱいおるし』と言うから、何かと思ったら子どもを4人連れてきた」

次ページ新しい環境で、視野が広がった
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事