没後4年、芥川賞作家「田辺聖子」今も心打つ生き方 大阪を愛し、大阪弁を愛した「おせいさん」

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大阪の商人が使う独特の言葉も学んだ。そこには大阪の人たちの知恵が息づいていた。

「『相手が返事に困るようなこと言うたらアカン』という商売人のそういうのを仕込まれます。向こうが面白がって返事するような会話をしないといけない」

ある番組では質問にこう答えている。

──解説して下さい。まずは「猿のションベン」。

「『気にかかる』というシャレですよ」

──「木にかかる」、なるほど。「赤子の腰」って何ですか?

「『ややこしい』という。ヤヤコでしょ、赤ちゃんは。会話の中にこれを挟んで『ちょっと赤子の腰やな』って『ややこしい話やな』ということになります」

──「八月の槍」というのは何ですか?

「『ぼんやり』ですね」

──(八月は)お盆だから。

「『ぼんやり』と言われたら、言われた方も『何だ?』ということになりますけど、『ほんまに八月の槍やな』『スンマヘン』と、こうつい声が出て来るんですよね』(中略)

「先輩が使うので、だんだん新米の丁稚さんたちが覚えていって。覚えると会話がスムーズになって、相手の商店のご主人としゃべるときに大変楽なもんですから、テクニックとして覚えてはるのね。

(中略)なるだけ相手を怒らせないようにして、こっちの言い分も通して、そして向こうの言い分も聞いてあげて。ほどほどのところでうまいこと『双方怒らんうちに手打とうやないか』という」

26歳で大阪文学学校に入学、小説を書き続けた

大阪人の気質と大阪弁の素晴らしさを知った田辺は、大阪弁で小説を書きたいと強く思うようになる。7年間勤めた金物問屋を辞めて、26歳で大阪文学学校に入学。仲間たちと同人誌をつくり、10年もの間、ひたすら小説を書き続けた。20代で結婚、出産するのが当たり前だった当時の女性としては非常に珍しいことだった。

「今もそうだと思うけど、26から36って、当時の女性にとっても大切な時期だった。私は結婚する予定も全然なかったし、家族から『将来どないすんねん』と言われていたけれど、『自分で自分に聞きたいわ』っていうぐらいだった。

案外のんきでポカッとしてたのは、物書き仲間の志を同じにする人たちと集まって、作品をああだこうだと批評し合う、これが本当に楽しくて、こういう楽しみがあってほんのちょっとのお金を稼げたら、もう人生何もいらないっていうぐらい面白かった」

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