没後4年、芥川賞作家「田辺聖子」今も心打つ生き方 大阪を愛し、大阪弁を愛した「おせいさん」

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「大阪の街ってだいたいはハイカラなところがあるのよ。みんなシャンソンとかアメリカのポップスなんか歌いながら、自転車を走らせたり。丁稚さんも番頭さんもみんな好きでしたのよ。

私たちも小っちゃいときから道頓堀の洋画の封切り館松竹座へ(映画を)観に行ったり、父たちや若い叔父や店の人全部そろって幌タクシーなんかでミナミの道頓堀のカフェに乗り込んだりして、みんな跳ね出してたの。でも、その一方で祖父みたいに浪花節が好きで、広沢虎造さんなんか聴いたり。もう私はゴッタ煮の中で育ってますの」

幼いころから本が大好きで、とくに少女小説を愛読していた。女学校時代には友人たちと手づくりの文芸雑誌を制作していたという。

「小説らしきものを書いてクラスメイトに回覧したりしてたの。吉屋信子みたいにロマンチックなのが好きですけど、山中峯太郎の冒険小説も好きだったのね。例えば『蒙古高原の少女』という題だったかな。私が女学校のときはちょうど戦争中ですから、少女スパイになってお国のために尽くしたかったの」

幸せな少女時代を奪い尽くした戦争

しかし、戦争が容赦なく田辺の幸せな少女時代を奪い尽くす。大阪大空襲で自宅の写真館は全焼してしまった。そして父親は病死する。優秀な成績で女学校を卒業した田辺は、小説家の道を進むことを決意しつつも、極貧に陥った田辺家の家計を助けるために、大阪の金物問屋で働きはじめる。

「やっぱり弟妹のことを考えると、どうしても学校に上げてやらなければと思って。でも、それはそれで、勤めに行ったお店がすごく元気があって面白かったの。商売の世界というのは打てば響くようなところがありますから」

田辺は苦境をものともせず、むしろ喜んで金物問屋で働いた。勤め先で田辺が知ったのが、大阪弁の面白さと奥深さだった。

「大阪人って不思議なところがありまして、自分のことを言うのに人のことを頼んでるみたいに言うんです。

例えば男性が女性をくどきますときに、『こない入れ込んでいるんやから、エエ返事聞かしたりいな』。お友だちのことを頼んでるのかと思っておりますと、本人が自分を売り込んでますの」

「『ええ返事聞かしたりいな』なんて、こういうまわりにまわったくどい言葉。商売の街ですから、お互いに気を悪くしないで、相手を傷つけないように断わったり、売り込んでもダメなときは、『ほんだらこの次はあんじょうお願いします』と言えるように」

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