エリート森鴎外も苦悩「嫁姑問題」明治の壮絶実態 小説「半日」に凝縮されている人間らしさ

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奧さんは生得寢坊ではあるが、これもまさか旦那が講義の時間に遲れても好いとおもふ程、のん氣ではない。特別に早く起きねばならない朝は、目ざまし時計に、「高い山から」を歌はせて目を醒まして、下女を起す位の事はする。併し兎角母君の方が先に起きる。それは其筈である。母君は頗る意志の強い夫人で、前晩に寢る時に、翌朝何時に起きようと思ふと、autosuggestion で、きつと其時刻には目を醒ますのである。それと反對で、此奧さんの意志の弱いことは特別である。(『半日』「鴎外全集 第四卷」岩波書店、1972年、初版1909年)

主人公は「文科大学教授文学博士」の職をもつ、高山峻藏。彼はかわいい娘(名前を「玉」と言った)と美人な妻と暮らし、幸福な日々を送っていた。だが悩み事があった。彼は「奥さん」つまり妻と、「母君」つまり母の間で、日々板挟みになっているのだった。

妻はお嬢さん育ちだが、母は昔ながらのいい奥さんをしていた女性だったので、まったくそりが合わないのである。例えば上に引用したのは、主人公の家で起きた「嫁と姑、どっちが早く起きるのか」問題。

妻はもともと寝坊しがちな、意志が弱めの女性だった。だが結婚してからはできるだけ努力をしており、用事があるときは、目覚まし時計を使うくらいのことはしている。

が、もっと早起きなのが、主人公の母だった。彼女は目覚ましなんて使わなくても“autosuggestion”つまり自己暗示で「よし、明日は5時に起きよう」と思えば起きられる体質なのだった。凄すぎる。こんな母に、お嬢さんな妻が勝てるわけがない。というかほとんどの女性は勝てないだろう。

絵に描いたような「皮肉っぽい姑」

そしてこの母、絵に描いたような「皮肉っぽい姑」なのである。現代だったらインターネット掲示板にでも書き込まれていそうな内容なのだが、れっきとした文豪・森鴎外の小説なのだから笑えてしまう。

その時臺所で、「おや、まだお湯は湧かないのかねえ」と、鋭い聲で云ふのが聞えた。忽ち奧さんが白い華奢な手を伸べて、夜着を跳ね上げた。奧さんは頭からすつぽり夜着を被つて寢る癖がある。これは娘であつた時、何處かの家へ賊がはいつて、女の貌の美しいのを見たので、強奸をする氣になつたといふ話を聞いてから、顏の見えないやうにして寢るやうになつたのである。
なる程、目鼻立の好い顏である。ほどいたら、身の丈にも餘らうと思はれる髮を束髮にしたのが半ば崩れて、ピンや櫛が、黒塗の臺に赤い小枕を附けた枕の元に落ちてゐる。奧さんは蒼い顏の半ばを占領してゐるかと思ふ程の、大きい、黒目勝の目をばつちり開いた。そして斯う云つた。「まあ、何といふ聲だらう。いつでもあの聲で玉が目を醒ましてしまふ。」(『半日』)

「まだ湯は沸かないのかねえ」と鋭い声で言う姑 VS 「なんという声だろう、いつでもあの声で子どもが起きちゃうわ」と言う嫁。

美人すぎて強盗に襲われることを恐れ、毎日すっぱり顔までパジャマで覆って寝る彼女も、まあまあエキセントリックであることがわかる描写ではあるが。しかしこの美人が起きてまず言うことが「あのお義母さんの声、子どもを起こすんですけど!」なところに日々の嫁姑バトルが見えるところである。

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