アメリカの民主主義が「機能不全」に陥った理由 極右化する保守と、大衆を軽んじるリベラル

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ただし私の感想は「現状分析は的確だが処方箋に問題が多く、しかもリンドがそのことを認めたがらずムキになっている」というもの。民主的多元主義の再生という結論自体には賛成ですが、これをどう実践するかとなると厄介な現実が待っています。

過去数十年の変化は、じつは二重構造なんですよ。まず各国の管理者エリートの中で、公的部門から民間部門へと重心が移動した。つまり新自由主義の台頭ですが、同時に公的部門の中でも、従来の国家レベルのエリートから、EUのような超国家レベルのエリートへと重心移動が起きている。こちらはグローバリズムです。リンドは「新自由主義」でひとくくりにしていますが、厳密に言えば、この2つは別個の問題でしょう。

のみならず、地域共同体や中間団体は19世紀からあったはずですが、当時の社会システムは労働者階級の地位や権利に配慮したものではありません。20世紀半ば、階級間の平和共存がいったん達成できたのは、管理者エリートが新たな支配層として台頭した結果なのです。

だからリンドも、エリートのいない世界などありえず、ポピュリズムは解決策にならないという立場を取る。しかしこうなると、管理者エリート支配の弊害を打破する道は、ほかならぬ管理者エリートの強化だということになってしまう。

なるほど、「強化されるべきは労働者階級に配慮する管理者エリートであって、新自由主義的・グローバリズム的な管理者エリートではない」とは言えます。だとしても、くだんの路線転換をどうやって促すのか。この数十年、逆方向への転換が進んだのが現実です。しかもそれは、民主的多元主義の構築とどんな形で結びつくのか。

「民主的多元主義の再生」にひそむ落とし穴

リンド自身が書いているように、階級間の平和共存が成立した際も、政府側の管理者エリートは、もっと中央集権的なシステムをめざしていました。これに対して、そこまでの権力集中は反アメリカ的だと言って、既に存在していた中間団体が抵抗、せめぎ合った結果として民主的多元主義が成立するにいたる。

つまり民主的多元主義は、設計主義的な方法論でつくれるものなのかということです。かりにつくれるとしても、そのような社会は「善良で賢明な管理者エリートの専制支配」と何が違うのか。プラトンの説いた「哲人王」の集団指導版のようにも思えます。

しかるにリンドは、抽象的な「べき論」と、労働者階級のロマンティックな美化に終始して、これらの点に触れようとしない。この姿勢は「歯切れの悪さ」などではありません。歯切れを良くしようとするあまり、無理を重ねたがゆえの苦しさです。本当に歯切れが悪かったのは、トランプの批判と擁護を同時にやろうとした第6章だけですね。

中野:ありがとうございます。最後に、古川さんにご意見をお伺いできますでしょうか。

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