「奨学金380万」45歳彼女が語るロスジェネの苦悩 田舎の男尊女卑と、不景気に苦しめられてきた

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「親に家賃を負担してもらいながら、一人暮らしを始めました。ただ、『女を試合には出さない』と言われてしまったことで、『じゃあ、なんで部活やってるの?』と思ってしまい、辞めちゃったんですよね。そういう時代だったんでですかね?(笑)」

当時を笑いながら回想する植田さん。もはや、植田さんの暮らしていた地域の男尊女卑のほうが気になってくるが、部活動は諦めて、勉強に全振りすることになった。前向きで頑張り屋な性格の植田さんは、専攻する学部だけではなく、他学部の講義や単位に換算されない講義も受けた。空きコマを作らずに、必要な単位は3年生までにほぼ取得できたという。

「教員免許もほしかったので、毎日講義をツメツメで入れていました。一方、奨学金は母の口座に入り、自分で自由に使えるわけではなかったので、生活費はアルバイトで賄っていました。講義が終わったら雑貨屋、カラオケボックス、居酒屋で働いていました」

院進を経て、借りた総額は380万円に

このように、勉強とアルバイトに明け暮れた4年間を過ごした植田さん。かなり勤勉な印象を受けるが、時は不景気真っ只中。就職は難航し、院進を選ぶ。

「当時は超氷河期と呼ばれていた時代。就活をしている周りの友人は80社受けても、1社も受からないことなんてザラ。100社受けてようやく内定を得るような時代でした。また、教員免許も受けましたが、私の科目では採用されるのは1枠しかなく、翌年もその枠があるかどうかすらわからない状態でした。

そんな中で同じ地方の国立大卒なら、大学院に進んだほうが価値が高くなるだろうと思ったんです。また、2年も経てば多少は売り手市場になるのではないかなとも予想しました。

ただ、博士課程は考えてなくて。その当時からオーバードクター(現・ポスドク)で溢れ返っていて、『学力面でもわたしよりも上のレベルの人はたくさんいるだろうから、だったら社会に出よう』と考えていました」

しかし、実家にお金はない。そのため、学費は再び奨学金から捻出するほかないのだが、大学院の修士課程では学部時代に借りられていた第一種が借りられなくなり、奨学金第二種(有利子)を借りることに。大学時代と合わせて、借りた総額は380万円となった。

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