現代日本(だけではないでしょうが)の哲学界の実情はこうなのですが、ここであらためて反省してみるに、論文を書くことは必ずしも哲学することの要件ではないのではないか? それは、哲学研究者の要件かもしれないけれど、哲学者の要件ではないのではないか? と言うと、すぐソクラテスを想い起す人がいますが、そんなに古い大物を出さなくても、すぐ近くに塩谷賢というモデルがあります。
彼とはもう30年を超える付き合いであって、いま「哲学塾」の講師をしてもらってもいるのですが、まさに万巻の書を読み、現代数学でも、論理学でも、素粒子論でも、カントでも、フッサールでも、ウィトゲンシュタインでも、ラカンでも……とにかく何でもかんでもわかってしまう。
そして、何十もの学会や研究会に出席し(海外にまで足を延ばし)、絶えず激しい哲学議論を戦わせ、ほとんどすべての人を打ち負かし、しかも何も書かない……というわけです。
論文を書かない哲学者だっていていい
ここで私は、その生き方を万人に勧めたいわけではなく、ただ、こういう仕方で哲学を続けるのもアリだと確信しているのです(では、彼はどうやってカネを稼いでいるのか? それは秘密です)。絵を描かない画家は画家ではないし、小説を書かない小説家はいない。しかし、哲学論文を書かない哲学者はいていいし、現にいるのです。
そこで、やっと以上のテーマを「哲学塾」に繋げますと、ここは、まさに(3)を削り取り(1)と(2)だけに目標を絞って哲学を学ぶ場と言えましょう。ということは、「哲学塾」では将来プロの哲学研究者になるような技法は何も教えていない。ここで10年哲学を学んでも、どこかの大学に就職できるわけではないし、「哲学作家」になれるわけでもない。ただ、哲学を究めるだけです。
じゃ、ウチに閉じこもってひとりでやればいいじゃないか、と言うかもしれませんが、そうではない。じつは哲学は(天才以外は)ひとりでは絶対にできないのです。いや「できる」かもしれませんが、思考の優劣・深浅の判断基準がきわめてあいまいなので、無限に、まさに「ひとりよがり」になる危険がある。前回、在野にはほとんど哲学的才能を見いださないと断言しましたが、それは、こういう意味です。
ときたま、とくに若い人で、「あっ!」と思うようなオリジナルでシャープな見解を持っている人がいますが、それを何十年も(死ぬまで)維持するのは至難の業。いつしか「ぐるぐる回り」が始まり、社会にもまれていくうちに、生き生きとした新芽も次第にしぼんでしまうことでしょう。
なぜなら、哲学とは、反社会的、少なくとも非社会的な営みだからです。「いま」とか「ある」とか「ない」とか「私」など、ほとんどの人が問題にしないこと(問題にしたくないこと)を問題にするからです。そして、何より、哲学の道具は言語しかないので、というより、哲学は言語そのものなので、哲学を続けるには、通俗的・社会的言語から自分を隔離する必要がある。そして、まったく新たな気持ちで哲学言語(という特殊なものがあるわけではないのですが)、を学んでいく必要がある。
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