武田軍も仰天「長篠の戦い前哨戦」驚きの仕掛け 信長と家康の緻密な戦略にはまる武田勝頼
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康・織田信長の連合軍と、武田勝頼率いる武田軍が激突した長篠の戦いの前哨戦、鳶ノ巣山(とびのすやま)砦の戦いを分析する。
武田勝頼の軍勢による三河国侵攻(1575年4月)により、徳川家康は窮地に陥る。交通の要衝にある長篠城(新城市。守将は奥平信昌)を武田軍に攻囲され、落城の危機に晒されたことも、家康には衝撃だっただろう。
武田軍の1万を超える軍勢に単独では対抗できないとして、家康は織田信長に支援を要請。しかし、この頃、信長は本願寺や三好氏との戦に手を焼いており、すぐに三河に出兵できる状態ではなかった。本願寺が築いた城を落とし、三好氏が降伏を申し出て、やっと信長は救援に向かえる態勢となる。
5月13日、信長は岐阜を出立。同月18日には、設楽原(長篠城の西方・約3キロ)に陣を敷いた。信長は、極楽寺山、家康は高松山を本陣とする。信長の援軍は約3万と言われている。この援軍を見て家康の胸にも希望の光が灯ったに違いない。
信長は窪地で大軍を隠そうとした
信長が設楽原一帯に陣を敷いたのは、同地の地形が一段と低い窪地になっていたからだった。窪地により、大軍の姿を隠そうとしたのだ。
滝川一益・羽柴秀吉・丹波長秀などの織田部将は、有海原に陣を置いたのだが『信長公記』によると、家康は「滝川一益の軍勢の前に、騎馬武者の侵入を防ぐための柵を取り付けた」という。いわゆる「馬防柵」である。
馬防柵の存在は『三河物語』にも「谷を前に丈夫な柵をつくって待ちかまえていた」と記載されている。また、5月19日付の家康が石川数正・鳥居元忠ら家臣に宛てた書状が残されているが、そこにも「以前、申し含めた場所のこと、様子をよく確認し、柵等を念を入れて設営せよ」と書かれていたため、馬防柵の設置が重視されていることがわかる。
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