武田軍も仰天「長篠の戦い前哨戦」驚きの仕掛け 信長と家康の緻密な戦略にはまる武田勝頼

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信長は、徳川の臣・酒井忠次を呼び、徳川軍の中から、弓や鉄砲の腕が優れた者を選抜。2000人ほどの部隊を作り、その中に信長の馬廻りの者や鉄砲隊(500挺)を付け、総勢4000で、鳶ノ巣山砦の武田軍に攻撃を仕掛けた(5月21日)。

ちなみに、酒井忠次は家康の重臣であり、吉田城(豊橋市)の城主であった。

武田勝頼軍が滝沢川を渡ったのは、5月20日か21日未明のどちらかと言われている。

『信長公記』によると、信長が酒井忠次に鳶ノ巣山砦の襲撃を命じたのは「五月二十日」である。『信長公記』には、勝頼が川を渡ったことを、この命令より前に記しているので、勝頼の渡河は5月20日とみてよいだろう。

信長は、勝頼の主力部隊が滝沢川を渡る様子を見て、酒井忠次に鳶ノ巣山砦の奇襲を命じたものだと思われる。そうしたことを考えると、信長のほうが一枚も二枚も上手だったと言えよう。

長篠の戦いへ

鳶ノ巣山は大野川の左岸に位置し、長篠城を南から見下ろせる絶好の場所であった。『信長公記』は武田勝頼が、この鳶ノ巣山に本陣を置けば、信長もなす術がなかったと記すが、勝頼は川を渡り、織田・徳川連合軍との決戦を選んだ。

5月21日、早朝、酒井忠次率いる軍勢4000は、鳶ノ巣山砦を鉄砲の一斉発射により攻め、武田方を追い払う。これにより、織田・徳川方は長篠城との連絡がつく。

酒井忠次の軍勢は、長篠城にそのまま入り、城内の者と一緒になって、攻囲する武田軍の小屋(陣屋)を焼き払った(『信長公記』)。

城を囲んでいた武田軍は退却していく。長篠城の救援はこれにて達成される。武田勝頼軍は、腹背に敵を抱えることになり、危うい状態に追い込まれた。史上有名な長篠の戦いは、眼前に迫っている。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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