武田軍も仰天「長篠の戦い前哨戦」驚きの仕掛け 信長と家康の緻密な戦略にはまる武田勝頼

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ちなみに馬防柵は信長の発案とする説もあるが、戦場で柵を設けることは珍しいことではなく、信長の天才的な閃きというわけではない。『信長公記』や『三河物語』にも、信長が柵を設営するように命じたとする記載はない。前述のように『信長公記』に「家康が滝川一益の軍勢の前に柵を取り付けた」とあるだけだ。

この馬防柵は、「長篠合戦図屏風」(徳川美術館蔵)には、合戦場のほぼ全域に構築されているように描かれている。だが、本屏風は「18世紀」頃に描かれたと思われ、どこまで真実を伝えているかは疑問である。

また『三河物語』には、長篠合戦が始まってからの記述として「信長の軍は柵際まで押し寄せられ、柵のなかに引きあげていた」とあり、信長の陣にも馬防柵があったことは推測できるが、どのくらいの範囲であったかは不明だ。

ある程度信用できる史料からは、馬防柵は家康の命令によって築かれ、滝川一益の軍勢の前面という一部分に構築されたことがわかる。

さて、一方の武田勝頼は、本隊を率いて、有海原に布陣する。信長の援軍を得た家康方は有利になっていたにもかかわらず、勝頼はなぜ滝沢川(寒狭川)を越えて、進軍してきたのか。

1つには、先述のように、信長が大軍を窪地に隠していたことも大きいだろう。武田軍を圧倒する数の軍勢がいることがわかれば、さすがの勝頼も無茶はしなかったはずだ。

勝頼は敵軍が逼迫していると踏む

もう1つは、織田・徳川連合軍の動きを見た勝頼の心理状態も関連していた。信長・家康の軍勢は、長篠城の救援に来ることなく、有海原にとどまっていたが、それを勝頼は「敵は、手段を失い、一段と逼迫している」(5月20日、勝頼が家臣に宛てた書状)と踏んだのである。

「敵陣に乗り懸り、信長・家康という両敵を倒す」(同前)との勝頼の意気込みが、武田軍を決戦の場に向かわせたのだ。

また勝頼は敵軍は兵力が足りず、後続部隊を待っているのではと考えた可能性もある。ならば、いち早く攻撃に出て、敵を叩き潰したほうがよい。

武田軍の前進を信長は「天の恵み」(『信長公記』)と考え、敵をことごとく討ち取ろうとした。

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