武田軍大敗「長篠の戦い」勃発した複雑な背景 信玄の死はどう影響したか、武田家で起きた事
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。その家康を苦しめ続けるのが、阿部寛さん演じる武田信玄だ。今回は信玄亡き後、家督を相続した武田勝頼と織田信長・徳川家康の連合軍が戦った長篠の戦いが勃発した背景を分析する。
元亀4年(1573)4月、武田信玄は病死した。武田家は、信玄の4男・四郎勝頼(母は諏訪頼重の娘)が継承する。
勝頼は、当初、武田家を継ぐ者とは見なされていなかった。信玄には、嫡男の義信(母は三条の方)がいたし、勝頼は諏訪家を継いで、さらには高遠城(長野県伊那市)城主にもなっていたからだ。
信玄「3年間は自らの死を伏せよ」
しかし、義信は謀反の疑いにより廃嫡され、信玄の次男は盲目、3男・信之は若くして亡くなっていたため、4男の勝頼が継ぐことになった。
前述したように、勝頼は当初は武田家の嫡流とはみなされていなかったし、甲府入りに際し自身の家臣団を引き連れてきたこともあり、信玄の重臣たちと軋轢が生じる可能性もあった。
信玄は亡くなる直前、遺言を残したというが、3年間は自らの死を伏せよというものが最も有名であろう(『甲陽軍鑑』)。
実は信玄はほかにも遺言を残していたとされる。それは、勝頼に跡は継がせず、勝頼の子・信勝が16歳になった際(当時はわずか7歳)に武田家当主となし、それまでは勝頼を陣代(名代)とするというもの。しかも、信玄は勝頼には、武田家当主を象徴する旗を与えないとまで言ったという。
もし、信玄が本当にこのような遺言を残していたとすれば、勝頼の権威が著しく低下した可能性がある。
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