武田軍大敗「長篠の戦い」勃発した複雑な背景 信玄の死はどう影響したか、武田家で起きた事

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とはいえ、信玄の遺言とされるものは、すべてが胡散臭いわけではない。勝頼は信玄死後も、信玄の名を記し、元亀4年5月から10月にかけて、書状を出しているので、信玄の死を秘匿しようとしたと考えられる。よって、信玄が自身の死を秘密にせよと言ったことはあったのかもしれない。

だが、人の死というものは、長く隠しきれるものではない。何より、武田軍は、三方ヶ原で徳川軍に大勝し、三河国の野田城も落としたにもかかわらず、甲府に引き揚げたのである。

「おかしい」「信玄の身に何かあったか」と思うのが普通であろう。元亀4年の4月下旬には、すでに「信玄が甲府へ退却したのは、病か。または死去したか。いずれにせよ、不審だ」「信玄は死去したに違いない」という話が、越後の上杉氏のもとにも届いていた。家康も当然、武田軍の動きにおかしなものを感じていただろう。

同年5月上旬には、駿河国に兵を出している。駿府辺りまで、徳川軍は「乱入」したようだ(実際は、駿府に近いところまで進出し、周辺を焼き払ったのみという説もある)。

信玄が生きていたら、そのような場所にまでは踏み込めないだろう。そのことからも、家康は信玄の死を確信したようだ。

家康は攻勢を強める。7月に奥三河の長篠城(新城市)を攻めたのだ。『三河物語』には、この時の長篠城攻めの記述がある。

同書には「長篠の城に武力偵察にやってきた。火矢を射させてみたところ、意外なことに本城、端城、蔵屋などがすべて焼け落ちた。よって、そのまま押し寄せ、攻めた」と書かれている。

長篠城は家康の手に渡る

武田方も長篠城に対し、援軍を送ってきた。しかし、その甲斐なく、城は9月には家康の手に渡る。勝頼は落城を「無念千万」と感じたが、そのことが、後の長篠の戦いに繋がっていくことになる。

長篠城攻めの最中には、三河の豪族で、武田方に降っていた者たちに対立が起こった。

奥三河の有力豪族・いわゆる「山家三方衆」(作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏)のなかで分裂があったのだ。作手(新城市)の奥平定能・信昌親子が武田から離反し、家康に従ったのである。

その原因は、武田にあると言っていい。奥平定能と、田峰の菅沼定忠の間には、東三河の牛久保(豊川市)領をめぐり争いがあった。

奥平定能は、甲府に使者を遣わし(6月上旬)、武田家にこの問題を訴えようとしたのだ。

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