武田軍大敗「長篠の戦い」勃発した複雑な背景 信玄の死はどう影響したか、武田家で起きた事

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ところが、武田方は「山家三方衆が相談して、牛久保領を増減なく配分するようにせよ」と言うばかりか、奥平定能に対し「少々、お考えに合わない所があっても、異議を挟むことなく、問題を落着させることが肝要」と主張する始末。これは、不服があっても、奥平に譲歩せよと言っているに等しい。

このような事情があって、奥平定能は武田に不満を持ち、我が子・信昌とともに、家康に帰順しようとしたのである。

家康もこの機を逃すわけにはいかないと、奥平家と接近を図る。家康の息女・亀姫を奥平信昌に嫁がせることを決めただけではなく、奥平家の本領や遠江国の知行地の安堵、新領を与えることまで約束する。奥平家としては、盛り沢山な嬉しい内容である。

奥平の裏切りを、武田が黙っているはずもない。人質となっていた奥平定能の子・千代丸らを処刑したのである(9月21日)。

天正2年(1574)に入ると、武田軍の攻勢が強まる。同年正月27日、東美濃の岩村城に入り、明知城(恵那市)を攻めたのだ。信長は、先陣として、尾張・美濃の兵を援軍として派遣(2月1日)。そして、2月5日には、自らも嫡子・信忠と出陣する。

数日中には、敵陣に駆け込むつもりだった信長だが、山中で難所だらけということもあり、手間取ることになる。

そうこうしているうちに信長に「飯羽氏が裏切り、明知の城はすでに落城」との報が飛び込んでくる。城が落ちたのならば仕方ないとして、信長は明知城の付近にある城を普請させたり、城番を置き、2月24日、岐阜に帰ることになる(『信長公記』)。

遠江国に武田の大軍が押し寄せる

5月になると、武田勝頼は遠江国に侵攻してくる。2万5000の大軍で狙うは、高天神城(掛川市)。同城の城主は、小笠原氏助。氏助は、武田信玄の遠江侵攻に際しては、いち早く武田に降っていた武将だが、信玄の死後に家康が巻き返しをするなかで、再び、徳川に従ったのだ。

武田軍が高天神城を包囲したのが、5月12日。武田軍は攻めに攻め、二の曲輪・三の曲輪の塀の際まで押し寄せたことから、勝頼は10日も経たず、城は落ちるものと信じていた。

城からはたびたび降伏したいとの申し出もあったようだが、勝頼は「許容しない」と強硬な発言をしている。その一方で、高天神城の小笠原氏の「領知」の安堵や合力したいとの申し出に応じたことも勝頼書状からわかり、和戦両方を睨んで対応していたと思われる。

高天神城の危機に家康はどのように対処したのであろうか?どうする?家康!次週に続く。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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