「スーパー資本主義」対「ポスト資本主義」のゆくえ 「火の鳥」に学ぶ「超長期プラス文理融合」の視座
一方、科学や技術を「競争力強化」「生産性向上」といった(狭い)目的に限定せず、むしろそこから解き放っていくことは、実はこれからの時代の科学・技術や経済社会の発展そのものにとってもプラスに働くと私は考えている。
なぜなら本来、科学的探究というものは、つまるところ“自分の興味のあることをとことん追究していく”という、ある意味単純で純粋な好奇心にほかならないからだ。
さらに言えば、“短期的な利潤拡大”や“目先の成果”ばかりを追い求めていれば、逆にそもそもイノベーションなど生まれないだろう。大学での研究を含め、“失われた〇〇年”に象徴される日本の問題あるいは悪循環はまさにここにある。真のイノベーションとは、むしろそうした短期的利益をめぐる競争を超えたところにあるのだ。
このテーマは、先ほど“集団で一本の道を登る”時代の後に開ける社会では、個人が自由度の高い形で自分の人生をデザインし、「好きなこと」を追求していくことが個人の幸福や「イノベーション」にもプラスに働くと述べた話題とつながる。
それは成熟社会における科学と技術のありようや意味、より広くはそこでの人間の「創造性」や「豊かさ」という、本書の関心の重要な柱をなすものである。
『火の鳥』2050
最後に、本書では第1章のタイトル「『火の鳥』2050──未来を考えるとはどういうことか」にも示されているように、手塚治虫の作品『火の鳥』に幾度かにわたって言及している。
思えば『火の鳥』は、文字どおり“超長期”のスケールで過去・現在・未来を俯瞰する想像力を示すものだった。と同時に『火の鳥』は、神話や民俗学、考古学、歴史学など“文系”的な関心と、科学、未来、宇宙、生命、地球等々といった“理系”的な探究とが鮮やかに融合した作品でもあった。本書の第1章で紹介する「ビッグ・ヒストリー」もそうだが、「人間についての探究」と「社会に関する構想」、あるいは純粋な好奇心というものは、自ずと文・理の枠を超えていくものだろう。
いずれにしても、科学やテクノロジーの意味を、表層的な流行や短期的な“ビジネス言説”を超えて、大きな視座においてとらえ返す試みが今求められている。それには自ずと資本主義という社会システムとの関わりや「持続可能性」等をめぐる価値との関係性などのテーマが含まれるが、本書のベースにあるのはそうした問題意識だった。
本書の内容が読まれる方にとって、何らかのヒントになればこのうえない幸せと感じる次第である。
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