ちなみに後継者という点においては、武田信玄も北条氏康も同じです。武田家も北条家も、彼らの後を継いだ息子たちの代で滅んでいます。同じことは織田信長にも豊臣秀吉にも言えます。後継者へのバトンタッチをスムーズに行えた家康だけが最終的な勝者になったのです。
現代の企業でも後継者選びに難を抱えるケースは多々あるので、これは今も昔も難題と言えます。
今川氏真の後半生
では領地を失った氏真はその後、どうなったのでしょうか。
氏真が北条氏を頼り、その後、家康のもとで暮らしたことは前述しました。
一時は牧野城の城主に任命され、家康の外交顧問のような立場も兼ねていたようです。氏真39歳のことです。この時期までは氏真は今川家の大名としての復活を目指していたように思われますが、家康はわずか1年ほどで氏真を解任します。このあたりはリアリストの家康らしく、シビアな判断を下したようです。その後、氏真はしばらく家康のいる浜松城に身を寄せたようですが、今川家の大名への復活を諦めたのか、家康のもとを離れて消息を絶ちます。
次に氏真が確認されたのは京でした。
氏真は53歳になっていました。どうやら、このころは秀吉が氏真の生活の面倒を見ていたようです。
氏真は、蹴鞠や連歌・和歌などに通じ、文化人としての評価が当時から高く、京での生活は性に合っていたのでしょう。公家らとの交流を示す文献が数多く残っています。ただ、このころも氏真と徳川家のつながりが認められ、家康と氏真の交流は続いていたと見られています。
そして、氏真の次男の品川高久は家康の後継者である秀忠に仕えていました。今川家の血脈は、ここで徳川家の配下として組み込まれたことになります。氏真、60歳のできごとです。そして1615年12月、江戸にてその生涯を閉じるわけですが、深い関係のあった家康よりも1年だけ早い死でありました。
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