女性の「東大入学」を要望し続けた姉妹の悲運 最初に門戸を開いたのは東大ではなかった
戦後まもなく婦人参政権が認められ、1946年4月10日におこなわれた戦後初の衆議院選挙では39名の女性議員が誕生しました。この流れと呼応して、この年には5つの帝国大学(北海道と名古屋を除く)が全部で51名の女子学生を受け入れましたが、そのうち最多の19名が東京大学です。
志願者数は108名だったといいますから、女子に限っていえば合格率は17.6%、男子の9.7%の2倍近い数字だった計算になります。
20%の壁を越えられない東大
先の南原総長の入学式式辞では、この件について次のように述べられています。
「日本女性の美徳を失はず」といった言い方は、現代では問題発言になるかもしれませんが、それはそれとして、このできごとが東京大学としても記念すべき一歩であったことがうかがえます。
1951年には、当時の教養学部長であった矢内原忠雄宛に女性専用の学生寮建設を要望する手紙が届き、南原総長もこれに理解を示して、矢内原総長時代の1953年9月に白金寮が開設されました。
東京大学の女子学生比率はその後、1990年代まではゆるやかに上昇していきますが、21世紀に入ってからはほぼ横這い状態になり、なかなか20%の壁を越えられないことがしばしば話題になっています。
そもそも「女子学生比率」などという表現が用いられているあいだはジェンダーバランスが正常化されていない証拠ですから、この不均衡が是正されるまでにはまだまだ時間がかかることでしょう。ここで立ち入るべき問題ではありませんが、南原総長がもし存命であればこの現状をどう思ったでしょうか。
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