女性の「東大入学」を要望し続けた姉妹の悲運 最初に門戸を開いたのは東大ではなかった

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ところでこの「新生」はもちろん、大学そのものの生まれ変わりを意味するものでもありました。そのことを象徴するのが、最初の女子学生の入学です。

東京大学で女性の入学問題が話題になったのは意外に古く、帝国大学令が公布されて正式な「総長」が誕生する前年、1885年(明治18年)のことでした。初めて予備門入学の願書を出したのは、医師の娘であった木村秀子・久重子姉妹。

けれどもこのときは学長に相当する「総理」であった加藤弘之から、「本学に於て目下女生徒入学之儀は論議に及び難く候」と断られたそうです。今から見ればあからさまな女性差別ですが、当時はこれがあたりまえの対応だったのでしょう。

女子学生入学の門戸を開いたのは東大ではなかった

木村姉妹はその後も要望を出し続け、1886年1月には森有礼文部大臣に直訴に及んだりもしましたが認められず、そうこうするうちに妹の久重子が肺炎で死亡、秀子だけが1887年に医科大学選科生としてなんとか入学を許可されたものの、実際に入学したかどうかは不明のまま、同年10月に若くして病死してしまったということです。なんとも悲運の姉妹としか言いようがありません。

その後も女子学生の入学は何度か評議会の議題にのぼっていたようですが、最初に門戸を開いたのは東京大学ではありませんでした。

1911年(明治44年)に東北帝国大学初代総長に就任した澤柳政太郎が、1913年(大正2年)に理科大学の正規学生として3名の女性を受け入れたのが嚆矢(こうし)とされます。けっして積極的な選択だったわけではないようですが、当時としてはずいぶん先駆的な決断でした。

その後、九州帝大は1925年(大正14年)、北海道帝大と大阪帝大は1935年(昭和10年)から女子学生を受け入れていますが、東京大学は女性を受け入れることなく、そのまま敗戦を迎えることになります。

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