東大入学後に全員「教養学部」で学ぶ深い理由 「普遍的教養」の重要性を強調していた南原総長

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抑々(そもそも)近世大学の発達の歴史に於て、「一般教養」(general education)の問題は、大学教育が次第に専門的知識の研究と教授に流れ、殊に産業革命の後を承けて職業的技術教育に堕した19世紀後半、当の英国、ひいて米国に於て「自由教育」(liberal education)の名に依つて、採り上げられるに至つたところのものである。それは教養ある一個の紳士、或は有能な社会的人間の育成を目的とするものである。
かくの如きは、日本に於ても、或る程度、旧制の高等学校教育の目的とされて来たところであるが、かやうな意味の教養は、何か人間の生を裕(ゆた)かならしめる心の装飾――人間として身につけねばならぬあれこれの知識といつた風に解せられ勝ちであつた。
併(しか)し、われわれがいま日本の大学自体の中に取り入れ、これを大学の機能となすからには、単に英米の模倣でなくして、新たな意義と目的を発見しなければならぬ。

「教養」を再定義

「教養ある一個の紳士、或は有能な社会的人間の育成」を目的とした英米の「自由教育」の理念を踏まえながらも、単にさまざまな知識を身につけることにとどまるのではなく、日本の高等教育にふさわしいものとして「教養」を再定義し、新制大学の重要な要素の一部として取り入れなければならないという決意が、この文面にはみなぎっています。

そしてその「新たな意義と目的」を発見するためには、「大学」universityという言葉が本来持っていた「知識の有機的統一体たる使命」、すなわち全体性・総合性を回復することが必須であると、南原総長は続けます。

然らば、近代科学と人間性をその分裂から救ひ、大学をその本来の精神に復すにはいかにすべきであるか。それには先づ、個々の科学や技術が人間社会に適用される前に、相互に関聯せしめて、その意義をもつと綜合的な立場に立つて理解することである。これがために必要なことは、われわれの時代が到達した謂はば生ける知識の体系について知り、それによつてわれわれの世代が共有する文化と文明の全体の構造と意味――世界と人間と社会についての理念を把握することである。

この主張はさらに、「重要なことは、自然・人文・社会を含めて、互に補ひ協力し、人間と世界についての諸々の価値や全体の理念を把握することである」、「既に知られてゐる知識を各分野、更には全体にわたつて綜合し組織化し、以て時代の到達した知識の水準と文化の特質を理解せしめることである」と展開されていくのですが、これらの言葉を読むとき、どうしても思い出さずにいられないのは、南原繁の弟子であった政治学者の丸山眞男が、近代日本の学問のありかたを「タコツボ」に喩(たと)えた有名な話です。

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