安全保障が最初に話し合われたのは、東京サミット(1979年6月)直前の1月、米英仏独のみ参加したグアドループ会合だった。4カ国はイランとアフガニスタンの政変、トルコへの援助、ドルの安定と石油問題など、東京サミットのアジェンダについて先にコンセンサスを形成し、招待されなかった日本側に不信感を抱かせた。その後の1983年、ソ連による中距離核ミサイルの配備に反対する合意は、アメリカ・ウィリアムズバーグ・サミットで形成された。
米ソが冷戦終結を宣言し、1990年10月に東西ドイツが統合したが、先立つ1989年7月の仏アルシュ・サミットはフランス革命200周年記念も兼ね、「中国に関する宣言」の中で天安門事件を非難しつつ、政治宣言の中ではABC兵器の不拡散を訴えた。
続く1990年7月のアメリカ・ヒューストン、1991年7月のイギリス・ロンドン、1992年7月のドイツ・ミュンヘンがこれに続き、1993年7月の東京サミット「政治宣言」に引き継がれた。当時の宮澤喜一首相の下、日本は他のG7諸国とともに北朝鮮のNPT(核兵器不拡散条約)脱退決定を非難し、旧ソ連諸国に対して核兵器の廃棄を求め、ウクライナ等に対し非核国としてNPT加入を求めた。
なお1990年ヒューストン・サミットの「議長声明」に北方領土への言及が登場するが、ロシアとの関係においてG7サミットはどのような役割を果たしてきたのか。
ロシアの取り込みに失敗したG8
ロシアのエリツィン大統領が初めてG7会合に出席したのは1997年6月のアメリカ・デンヴァー・サミットであり、翌1998年5月の英バーミンガム以降はG8主要国首脳会議となった。サミット会合直後にG7首脳たちがソ連のゴルバチョフと会談したのは1991年のロンドンであり、翌1992年ミュンヘン・サミットの直後にはエリツィン大統領との会談がもたれ、ロシアをG7に取り込むリーダーシップを米欧諸国がとった。
日本はロシアのG7参加において目立った役割を果たさなかったが、冷戦終結後はEBRD(欧州復興開発銀行)を通した中・東欧諸国支援に貢献した。ソ連の支配から解放されたポーランドやハンガリーなどが市場経済化、国有企業の民営化、民主化改革を行う中、93年7月の東京サミットで日本は旧ソ連諸国の改革を支援する合意を形成した。日本は2番目に大きなドナー国となって支援し、2017年までに40.4億ユーロを支出してきた。G7は一貫して自由と民主主義など価値の共有にこだわり、これに基づく繁栄と安定を支援した。
ロシアは2012年8月にWTOに加盟し、日米欧企業はロシア市場にこぞって進出した。
G7発足当初から最も重視されてきた民主主義、自由、法の支配、人権などの価値をロシアも共有するようになることが期待された。だが2014年3月、突如クリミアで「独立」を問う住民投票が行われ、すぐにクリミアはロシアに無血編入された。同年2月にはソチ五輪が開催され、その会場を使ってロシアが議長国をつとめるG8サミットが6月に予定されていた。ロシアは価値を共有するG7に取り込まれるどころか、自らの地経学的な野心に基づく行動に出た。
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