【特集・G7サミットでのウクライナ支援(第2回)】
国連安保理の常任理事国ではない日本にとり、G7(グループ・オブ・セブン=先進7カ国首脳会議)はG6として初開催された当初から、グローバルなリーダーシップを発揮できる貴重な場だった。日本は2023年5月にG7広島サミットで議長国をつとめるが、経済を重視してきたG7でのこれまでの歩みから一歩出てグローバルサウス(途上国)を巻き込みつつ、NATOと連携して安全保障面で具体的な貢献が求められている。
経済サミットとしての起源
G7サミットは1975年11月、パリ郊外のランブイエ城でG6として初めて開催された。ニクソン・ショック(ニクソン大統領が発表したドルと金との交換停止)と第1次石油危機の対応という、経済危機対応が開催動機だった。参加国は、後のホスト国の順に、開催を提唱したフランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本というG5財相会合の面々と、イタリアだった。アメリカはイタリアが入るならばカナダも参加するべきと主張し、1976年にG7となった。
G7の開催は条約に定められておらず、常設事務局もなく、1年交代の議長国輪番制を採り、最後に採択する共同宣言に拘束力は無い。G7は当初より価値を共有する西側諸国の最高レベルの首脳会合として重宝され、帯同する側近が最小限に抑えられインフォーマルかつ非公開ゆえに、最も重要な問題について胸襟を開いて話し合い、認識を揃える貴重な場(小倉和夫、2009年)である。
G7は経済覇権が揺らいだアメリカを西側諸国が集団で支え国際経済体制の政策協調を行う場(大芝亮『日本の外交 第5巻』)となり、1977年5月のロンドン・サミット以降、EC(欧州共同体)を加えて定期開催されるようになった。以来、G7は貿易自由化や規制緩和、環境保護、途上国援助の在り方など、グローバルな経済ガバナンスの基本線を打ち出す役割を担ってきた。
日本は1979年6月の東京サミットで初の議長国となり、GATT東京ラウンドを妥結させた直後、当時の大平正芳首相はその次のステップを提案し、第2次石油危機と南北問題への取り組み強化を打ち出した。日本の米欧諸国への輸出は貿易摩擦へ発展していたが、日本自身が「問題」であるからこそ、日本も含めてG7が継続・定期開催された。日本は以降、アジア諸国唯一の参加国として積極的にリーダーシップを発揮してきた。
経済に加え安全保障でも政策協調をはかるG7サミット
経済サミットであるG7は、徐々に安全保障をアジェンダに設定するようになった。フランスは初回G6サミットで東西貿易をアジェンダとし、アメリカのキッシンジャーは途上国援助(南北問題)を主張し、どちらも定番アジェンダとなった。
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