フグ獲れない大阪で「フグ料理」が名物になった訳 商人たちの創意工夫で「安くて・うまい」を提供

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「当たると死ぬ」ことから、江戸時代からフグには「鉄砲」というあだ名がついていました。この鉄砲とちり鍋を合成した「てっちり」という名称が、ふぐのちり鍋の愛称として定着します。

 “冬になると食味人を魅惑する鐵ちりが何處の料亭のメニューにも割込んで來る”

『食道楽 1934(昭和9)年11月号』の「京阪食味街」(阪木洋二)によると、この頃には大阪のどの料亭にもてっちりがメニューに載るようになります。

 “近頃鐵ちりをやる店が増へた勢が競争に引づられてか値段も追々と廉く、一圓内外でちり鍋と射肉(いりにく)の併食が出來るのは有難い事だ”

単にブームにのるだけではなく、より安く提供しようとするのが大阪商人の心意気。昭和初期のてっちりブームの頃から、大阪では安くフグを食べることができたのです。

フグ料理を安く提供できた秘密

フグ料理は当時も高級料理であり、九州から瀬戸内海でとれるフグは高値で取引されていました。

そこで大阪商人が注目したのが、まだフグブームが起きていない中部地方でした。伊勢湾産のフグは、安値で放置されていたのです。

日本では明治時代末頃から、鉄道による冷蔵輸送が始まります。氷を満載した冷蔵車の導入により、遠方で漁獲された魚介類を鮮度を落とすことなく消費地に運ぶことができるようになったのです。

昭和初期には、宮城県で朝にとれた牡蠣が夜には東京のとんかつ屋でカキフライになったり、築地で仕入れた魚がその日のうちに軽井沢の寿司店で提供されるようになります。

鉄道による冷蔵輸送により、伊勢湾の安いフグを新鮮なまま大阪に輸送することで、“三割から五割も安い”(前出の「京阪食味街」)仕入れ値でフグを提供できるようになったのです。

戦後になっても、フグを安く提供しようとする大阪商人の努力は続きます。彼らが注目したのは、マグロの遠洋漁業でした。

日本の漁船はマグロを求めて、日本近海から遠洋へと進出していきます。1960~1970年代には、インド洋や南氷洋にも日本のマグロ漁船が漁に出かけていきます。

その際に問題となったのが、冷凍によるマグロの劣化でした。当時の冷凍マグロは解凍すると色が黒ずんでしまい、刺身や寿司に使えなくなるという欠点がありました。生食用に使えない冷凍マグロは、缶詰などの加工食品向けに安く売られていたのです。

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