養老孟司「思い通りにならない時に人は試される」 自分のモノサシを固定化した瞬間、人は不寛容に

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養老孟司さん
養老孟司さんが「寛容の始まり」を説きます(撮影:今井 康一)
ものがわかるとは、理解するとはどのような状態のことを指すのでしょうか。解剖学者の養老孟司さんは子供の頃から「考えること」について意識的で、1つのことについてずっと考える癖があったことで、次第に物事を考え理解する力を身につけてきたそうです。自然や解剖の世界に触れ学んだこと、ものの見方や考え方について、脳と心の関係、意識の捉え方について解説した『ものがわかるということ』から一部抜粋、再構成してお届けします。

人疲れしたときは「対物の世界」に

人ばかり相手にしようとすると、疲れたり不安になったり、イライラしたりする。SNSはその典型です。

世界は見方によって、「対人の世界」と「対物の世界」に大きく分かれています。

たとえば「将来の夢はユーチューバー」という子が増えているといいます。私もユーチューバーになってしまったので否定はしません。でも、これは子供たちがいかに「対人の世界」だけで生きているかの表れでしょう。人からどう見られるか、人とどうつき合うか。こういう関心だけで世界が成り立っているのはもったいないことです。

最近の小説にも、「対人」が中心になっているものが多いように感じます。あの人がどうした、こうしたということばかり書いてあって、自然の描写が少ない。昔の文学、小説はそうではなくて、「花鳥風月」がありました。自然の風景というのは、人間の外側に、人間の意思とは無関係に広がっています。

私は根っからの虫好きです。虫の世界は「対物の世界」です。対物の世界はいつも平和です。野山に虫を捕りに行っても誰にも会いません。田舎の山の中なので、コロナ禍で出歩いていても、自粛自警団に叱責されることもありません。

人間は、人の世界と物の世界を行き来することでバランスを保ってきました。「対物の世界」を遠ざければ、「対人の世界」ばかりに目が向くのは当然です。それでは煮詰まって、感覚が干上がってしまいます。

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