皇后が近代天皇制の中で果たした役割とは? 原武史×奥泉光「皇后たちの祈りと神々」
奥泉:僕は以前、『神器―軍艦「橿原」殺人事件』という小説を書きました。アジア太平洋戦争の戦況が悪化していく中で、神風が吹かないのは天皇のせいだと考える人たちが小説中に登場する。あの天皇はニセモノであって、本物は別にいる。そうでなければ、神風は必ず吹くはずだ、という発想です。もっと天皇がちゃんと祈らないからこうなるんだと。もちろんこれはフィクションですが、現実にもそう考える人が出てきてもよかったと思うんだけど、案外いないんですよね。
たとえば古代のイスラエルでは似たような状況下で、非常にダイナミックな思想の展開がありました。神ヤハウェは圧倒的に強い戦争神。だから、それに帰依している自分たちが負けるはずはないのに、イスラエルは周辺の大国に滅ぼされようとしている。そのときユダヤ預言者らは、イスラエルが滅ぶのはヤハウェが弱いからではない、むしろイスラエルの滅びはヤハウェの意志なのだ、と思考を反転させます。その思想が社会倫理と神学を結びつけ、後のヨーロッパ世界やイスラム世界で決定的な意味を持った。
大急ぎでフィクションとしてつくられた天皇制は、そこまでの思想的深みを持てなかったんだなとつくづく思います。
原:そういう意味では、昭和天皇に対して実はいちばん反逆したのは、ほかならぬ皇太后節子だったような気がします。『昭和天皇実録』によると、1945年7月30日と8月2日に、昭和天皇は香椎宮と宇佐神宮に勅使を派遣して戦勝を祈願させている。敗戦間際の土壇場で、勅使が伊勢ではなく香椎と宇佐に行ったというのは大きな謎です。これは皇太后の意志だとしか思えません。神功皇后は応神天皇を妊娠したまま三韓征伐を行った。つまり三韓征伐を前提にしなければ、絶対に出てこない発想なのです。
そうだとすれば、1945年の8月の段階でもまだ2人の葛藤は続いていたことになります。この記述を見つけたときは、学者人生でこんなに興奮したことはないぐらい興奮しました。
宮中に流れ込んだ宗教
奥泉:『皇后考』を読んでもうひとつ僕が興味を惹かれたのは、宗教の問題です。普通に考えれば、天皇は国家神道の中心に位置づけられたわけだから、祈りの向かう先はアマテラスであり、歴代天皇の皇霊です。ところが、そうであるはずの宮中に、実はさまざまな宗教が皇后経由で流れ込んでいたことを明らかにされていますね。
たとえば明治の皇后美子(昭憲皇太后)と大正の貞明皇后は小さい頃から日蓮宗(法華経)に帰依していて、それを宮中に持ち込んでいる。昭和の皇后良子(香淳皇后)は戦時中からキリスト教の聖書の講義を宮中で受けていた。東京が空襲を受けているさなか、皇居ではなんと聖書の講義が行われていた。見ようによっては大変シュールな光景ですよね。ほかに儒教の影響もあったでしょう。宮中にこれほど宗教が入り込んだのはなぜですか?
原:結局、明治政府が「神道は宗教ではない」としたことが大きいでしょうね。あれは祭祀なんだ、と。そうすると宮中にいる人たちは何によって安らぎを得ればいいのか。本物の宗教に行くしかなかったと思うんです。
こういうことは、公式の文書では基本的に伏せられています。たとえば『昭憲皇太后実録』には、皇后美子が日蓮宗に帰依していたという記述は一行もありません。その点で、『昭和天皇実録』は、天皇とカトリック信者との関係をきちんと書いていたので、そこは評価していいと思います。