皇后が近代天皇制の中で果たした役割とは? 原武史×奥泉光「皇后たちの祈りと神々」

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:大正時代は、世界史的に見れば革命の時代です。ロシアをはじめ君主制がどんどん倒れて共和制に移行した。そういう状況で大正天皇の病が悪化していった。文字通り未曾有の危機でした。だから、山縣有朋も原敬も政治的な立場を超えて、皇太子を摂政にすることで何とか事態を収めようとしたわけです。

しかし、翌年には貞明皇后が神功皇后以来とされる九州行啓を行い、その次の年には関東大震災が起こる。震災時に皇后は卓越したリーダーシップを発揮して、天皇に代わる政治主体として動いています。

宮中祭祀を重視する皇后にしてみれば、洋行帰りで女官制度の改革などに熱心な皇太子裕仁は怒りの的でした。祭祀を軽視するように見えたからです。

奥泉:両者の葛藤はその後もずっと続いて、宮中のみならず、昭和初期の政治状況にも色濃く影を落としていることがよくわかりました。そういう視点から近代史の事件を読み直してみると、あらたな発見がありそうです。

:二・二六事件のあと広田弘毅内閣が成立したときに、皇太后節子が閣僚を一人ずつ大宮御所に呼び出したことがありました。閣僚たちはみんな感激して、泣く者までいた。西園寺公望などは、そうした皇太后の動きに警戒心を持っていて、とても心配しています。

資料としての和歌

奥泉 光(おくいずみ・ひかる)●1956年生まれ。作家・近畿大学教授。著書に『ノヴァーリスの引用』(野間文芸新人賞)、『石の来歴』(芥川賞)、『神器―軍艦「橿原」殺人事件』(野間文芸賞)、『東京自叙伝』(谷崎潤一郎賞)など。

奥泉:先ほども言及されていましたが、今回の本では、特に貞明皇后が詠んだ和歌に注目されていますよね。和歌が随所で引用されて、その解釈を通じて皇后の内面に大胆に踏み込んでいる。これは『皇后考』の大きな特色で、読みどころのひとつだと思いますが、同時に「歴史叙述とは何か」という根本的な問題にも関わります。

:その点は、批判を受けるのは覚悟のうえで、突破するしかないと思いました。天皇制というテーマは、資料の制約が厳しくて、特に天皇本人が書いた一次資料は基本的にないわけです。皇后の場合、ちょっとはあるんですが、それも例外的です。つまり、学者として安全なところで踏みとどまっていると、周辺ばかりグルグル回って、いつまでも本質がつかめないんです。

奥泉:なるほど、であればこそ和歌はとても貴重な資料でありうると。ただ、一般に歌を解釈することは非常に難しい。そのご苦労はいかがでしたか?

:貞明皇后の歌はそんなにうまくないんです。逆に言うと、そうとうストレートでわかりやすい。ほとんどツイッターですね。ここまで明け透けに言っちゃっていいのか、というぐらい率直な歌が多いんです。初めて見たときは私も驚きました。

もちろんそういう歌の多くは、公式の御歌集には収録されていません。幸い貞明皇后の場合は、御歌集とは別に『貞明皇后御集』(国立国会図書館所蔵)が残されています。全3巻もあって、収録されている歌の数が多い。その時々の彼女の内面が手に取るようにわかります。さらに、この『御集』には、ある句の横にちょっと違う句が並記されていたりして、推敲した痕が残されているんです。御歌集では完全に出来上がった歌だけが並んでいますが、『御集』では彼女の思考の断片を垣間見ることができました。

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