「1000人の死化粧」をした人が見てきた人生の最期 遺体から声なきメッセージを受け取って

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相応の覚悟がなければできないこの特別な儀式に、宿原さんが携わろうと思ったのは、もちろん理由がある。宿原さんの実家は祖父の代から100年以上続く葬祭業を営んでおり、死が身近にある環境で生まれ育った。

「幼い頃から祖父の仕事を間近で見ていて興味を持った私は、写真(遺影)は誰なのか、どこに飾るのか、祭壇をどのように使うのか、気になることをよく質問していました。両親から家業継承の話をされたことは一度もないのですが」

宿原さんも、家業の大変さはよくわかっていたので、最初はアパレル業界で働きはじめた。しかし顧客ニーズに応える仕事で経験を積むうち、「葬祭業こそがお客様のニーズに応える究極の仕事。やはり自分も葬儀に関わる仕事がしたい」と思いはじめる。

「もっとご遺族に寄り添う心のケアができないか」

30歳を過ぎたころ母親にその話をすると反対されたが、40歳手前で再度相談したところ、『湘南に葬祭の専門学校ができたようだから話を聞いてみたら?』と前向きな提案が返ってきた。その専門学校の社会人コースで1年間学んだ宿原さんは大手互助会に就職し、葬祭業全般に関わる仕事に従事した。

するとしばらくして、「もっとご遺族に寄り添う心のケアが何かできないか」と考えるようになった。その頃、タイミングよく死化粧学校の開校案内が実家に届いたのは、必然だったのだろう。

講師は、法医学教授を父に持ち、死化粧を独自に習得したウール琴子(当時の旧姓:佐藤琴子)さんだった。琴子さんが死化粧をはじめたのは、アメリカで特殊メイクの仕事をしていた2001年9月11日、同時多発テロの凄惨な現場を目にしたことがきっかけだったという。

宿原さんの仕事道具(撮影:今井康一)

「特殊メイクで生きている人を亡くなったように見せられるなら、亡くなった人を生きているように見せることもできるかもしれない」

このウール琴子さんの言葉が、宿原さんの胸に響いた。

「琴子さんはアメリカ暮らしが長かったため、日本の葬儀の仕組みがよくわからず、仕事で現場に呼ばれると困惑することもあると話していました。私が死化粧師になったら、その仕組みに合わせてできることがあるかもしれない。そして、日本にもっと死化粧師を増やしていきたい、と思ったんですね。そこで、自分が教える立場になったらどう教えていけばよいだろうかと考え、いろいろ情報を集め検証しました。さらに、海外で学んだ顔面修復の技術をもとに、骨格に合わせたメイク方法を構築して、現在の形を作りました」

死化粧はアメリカの看護の世界ではじまった「エンゼルケア」に由来する。エンゼルケアの考え方は、アメリカのドロセア・オレムという看護師が提唱した理論に端を発している。

亡くなった患者はセルフケアを行えないため、周囲の人がケアする必要があるというこの考えに基づき、日本における死後処置(エンゼルケア)が行われるようになった。

ところが以前、病院ですでにメイクを施された故人(女性)の旅支度を宿原さんがしていたときのこと。側で見ていたご長男がポツリとこう漏らしたという。

「母はこういう派手な色の口紅をつける人ではないのだけれど、もう変えられないよね」

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