ついでにいえば、最終的に、教団への訣別を決意させるのも、教団の外の世界の人間との友情(あるいは、非信徒との恋愛)ということになっている。
それほど、われわれは、友だちにヨワい。
結論を述べる。
私どもの国の集団は、宗教団体であれ、企業組織であれ、帰属意識を維持するための切り札として、メンバー間の友情を利用している。
なんと巧みな人間管理手法ではないか。
教義や雇用契約を裏切ることは、いざとなったら、そんなに困難なミッションではない。教義は思想によって相対化され得るし、雇用契約は、別の利害関係や、新しいオファーによって簡単に無効化されてしまう。
成長産業では過酷労働が仲間意識を育む
しかしながら、仲間を裏切ることは、この国に生まれた人間には、とてもむずかしい。そういうことになっている。
特に、同じ苦難をくぐりぬけた戦友を残して、自分だけが逃げ出すことは、マッチョな男であればあるほど、受け容れがたい屈辱に感じられる。かくして、企業は、同期の仲間たちの相互の友情を、会社への帰属意識として一括管理することができる。だからこそ、彼らは研修の精緻(せいち)化と強度に心を砕くわけなのである。
伸び盛りの若い企業では、仲間意識がごく自然に育まれる。それもそのはず、膨張しつつある産業の周辺には、常に過酷な労働があるからだ。
この「過酷な労働」は、いまの言葉でいえば、「ブラック」ということになるわけだが、成長産業の中では、過剰労働がブラックと認識されることは少ない。なぜなら、勝ちつつあるゲームの中の超過勤務は、強いられた残業とは違って、キツさを感じさせないからだ。多くのプレイヤーはショートゴロよりも三塁打の方がキツいとはいわない。そういうものなのだ。
ところが、企業の業績が落ち着くと、社員は、定時退社を望むようになる。徹夜残業が仲間意識を鼓舞(こぶ)する幸運な状況も霧散する。
で、研修が企画され、シナリオ進行の友情が製造され、愛社精神と友情の合体した不可思議なわが社野郎が大量生産されるわけなのだが、それはそれとして、会社を辞めたオダジマには友だちがいない。まあ、仕方のない話だ。
間違っているときにも味方すること。
正しいときにはだれだって味方になってくれる。
byマーク・トウェーン
by小田嶋隆
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