(……もし、あのとき、アラームが鳴らなかったら……
あのまま、コーヒーが冷めるのを待っていたら、母さんを最後の最後で不幸にするところだった……
陶芸家を目指して、長い間認められず、成功に囚われ、騙され、自分ばかりがなぜこんな不幸な目にあわなければならないのかと、嘆き苦しんだけど、自分がそれ以上の苦しみを母さんに与えるところだった……
生きよう……何があっても……
最後の最後まで、自分の幸せを願ってやまなかった母さんのために……)
幸雄の意識は、戻りゆく時間の中でゆっくりと遠退いていった。
世界は変わらない。変わったのは自分
気がつくと、店内には数のほか誰もいなくなっていた。幸雄は現実に戻ってきた。しばらくすると、トイレからワンピースの女が戻ってきた。スルスルと音もなく幸雄の前まで来たかと思うと、無表情に幸雄を見下ろし、
「どいて」
と不服そうにつぶやいた。
「……」
幸雄は、洟をすすり上げながら、ゆっくりとワンピースの女に席をゆずった。ワンピースの女は黙って席に着き、幸雄の使ったカップをつっと押し出すと、何事もなかったかのように小説を読み出した。
(店内が輝いて見える)
幸雄は不思議な感覚に戸惑っていた。店内の照明が明るくなったわけではない。でも、幸雄の目に映るものすべてが鮮明に見える。あきらめの人生から、希望の人生へ。幸雄の心は大きく変化していた。
(世界は変わらない。変わったのは自分……)
幸雄は、じっと、ワンピースの女を見つめながら、今、体験したことを頭の中で反芻している。その間、数は、幸雄のカップを片づけ、ワンピースの女に新しいコーヒーを出していた。
「母が……」
幸雄は、数の背に向かって声をかけた。
「あなたに感謝していました」
「そうですか……」
「わたしも……」
幸雄はそう言って、深く、深く頭を下げた。数は幸雄が使ったカップを片づけるためにキッチンに姿を消した。数がいなくなると、幸雄はおもむろにハンカチを取り出して、涙でぐしゃぐしゃの顔を拭い、洟をかみ、
「いくらですか?」
と、キッチンにいる数に向かって声をかけた。数はすぐに戻って来て、レジ前で伝票を読み上げ、
「コーヒー代、深夜料金込みで四二〇円です」
と答えると、ガチャガチャと表情も変えずにレジを打った。ワンピースの女も何事もなかったかのように小説に読みふけっている。
「……じゃ、これで」
幸雄は千円札を差し出しながら、
「……なぜ、アラームの説明をしなかったのですか?」
と、質問をした。数は、お金を受け取ると、再びガチャガチャとレジを打ちながら、
「すみません、説明を忘れていました」
と、涼しい顔で小さく頭を下げた。幸雄は、嬉しそうにほほえんだ。
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